杉田 力之(すぎた かつゆき、1942年10月13日 -)は、神奈川県出身の第一勧業銀行元会長兼頭取(最後の頭取)、みずほホールディングス初代社長を経て現在みずほフィナンシャルグループ名誉顧問。日本カントリークラブ理事長。
旧・日本勧業銀行出身(1965年入行)。
1997年に第一勧業銀行を取り巻く金融不祥事(総会屋への損失補填による利益供与)が発覚し、宮崎邦次頭取の自殺、宮崎の自殺後頭取に就任しまもなく辞任に追い込まれた藤田一郎の逮捕などが起こる大波乱の最中に頭取に就任。就任時の54歳という年令は都市銀行の頭取としては異例の若さでの抜擢人事であり、宮崎、藤田など旧・第一銀行出身者が上層部を占めてきた中で日本勧業銀行出身者の杉田を登用したことでも異例であった。
杉田 かおる(すぎた かおる、本名:橋本 薫(はしもと かおる)、1964年11月27日 - )は、日本の俳優 女優・タレントである。血液型はB型。左利き。
東京都新宿区出身。明星学園高校中退→日本放送協会学園高等学校(NHK学園高等学校)卒業。
7歳の時に日本テレビ放送網 日本テレビドラマ『パパと呼ばないで』に出演し、天才子役の名をほしいままにする。当時の月収は約1000万円だったと自称する。しかし収入の大半を母に使われてしまい、杉田自身は苦しい生活をしていたという。やがて仕事が激減し、両親は離婚。
その後、母に嫌気がさした杉田は、新しい芸能事務所を設立するが倒産し、13歳にして借金300万円を背負う。借金を返済するため新しい事務所に入って借金を立て替えてもらい女優業を再開。1979年から1980年に放送された東京放送 TBSのテレビドラマ ドラマ『3年B組金八先生』で妊娠する中学生を演じて再び話題を集めた。
杉田 敦 (すぎた あつし、男性、1959年4月30日 - )は、法政大学法学部教授。専攻は、政治理論、政治思想史。
群馬県伊勢崎市生まれ、東京育ち。筑波大学附属駒場中学校・高等学校 筑波大駒場中・高で学ぶ。東京大学法学部卒業。同大学学士助手に採用される。指導教官は福田歓一。実質的な指導を受けたのは佐々木毅であるとも言われる。助手論文提出後、助教授として新潟大学に赴任。その後法政大学に赴任し、現在は法学部教授である。
『権力の系譜学――フーコー以後の政治理論に向けて』(岩波書店, 1998年)
『権力』(岩波書店, 2000年)
『デモクラシーの論じ方――論争の政治』(筑摩書房[ちくま新書], 2001年)
杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - )は、東京市神田区(現:東京都千代田区)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
「フォークボールの神様」と呼ばれる人物として有名である。また、80代という高齢であるにもかかわらず、中日ドラゴンズOB会にも積極的に参加して、率先的に現役の中日選手や首脳陣をねぎらったり、激励したりしている。また、中日では日本シリーズMVPを獲得している唯一の選手であることから彼のことを初代ミスタードラゴンズと呼ぶファンも多い。
旧制帝京商業学校(現・帝京大学高等学校)野球部時代は4番・一塁手。当時野球部の監督は天知俊一。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。1944年3月に卒業し入隊。野球経験者という理由だけで中隊対抗手榴弾投げ競争の代表に選ばれる。弱肩であることを言い出せず、フォームを上手投げに矯正し必死に遠投を練習。練習の甲斐あって肩が強くなり、競争では優勝した。
杉崎 美香(すぎさき みか、1978年10月31日 ~ )は、大分県大分市出身のセントフォース所属のフリーアナウンサーである。上顎犬歯 八重歯が特徴的。星座はさそり座、血液型AB型、身長158㎝。
大分市立別保小学校→大分市立鶴崎中学校→大分県立大分鶴崎高等学校→山口大学人文学部卒業後、2001年、信越放送にアナウンサーとして入社。2003年9月に退社、フリーとなる。同年の10月、フジテレビで「めざにゅ~」がスタート、同番組のメインキャスターとなる。
そして2006年8月GyaOで初の冠番組杉崎美香のおやすみ図書館がスタートした。
めざにゅ~公式サイトでは放送日に毎日更新される彼女の日記を読むことができる。また、所属事務所セントフォース公式サイト(携帯電話)の各コーナーに参加しており、ブログにはめざにゅ~の裏話や日常のエピソードを掲載している。
杉江 勇次(すぎえ ゆうじ、1968年7月10日-)は、ウェザーマップ所属の気象予報士。
千葉県出身。中央大学理工学部卒業後、富士通で3年間システムエンジニアをしていたが、気象予報士の資格を取得しウェザーマップに転職。東京放送 TBSでお天気キャスターを6年間務めた後、日本テレビ放送網 日本テレビに移りお天気キャスターを務めることとなった。
ドラム演奏が趣味で、雷の時には激しくシンバルを鳴らすといった、ドラムを使った天気予報をしてみたいという。
NNNニュースダッシュ(日本テレビ)(毎週月曜日から金曜日、11:30~11:50(JST))
あさ天サタデー(日本テレビ)(毎週土曜日、5:00~5:59(JST))
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお、1911年6月25日 - 2004年6月18日)は、日本の漫画家。本稿で詳述。
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお、1942年2月3日 - )は、日本の薬学者。京都府京都市出身。京都大学薬学部卒業、同大学院薬学研究科中退。京都大学化学研究所教授。日本薬学会役員。
1992年に「抗がん抗生物質のブレオマイシンの作用メカニズムの解明に関する研究」によりアップジョン医学研究フェローシップ賞受賞。共著に『いのちと暮しのケミ・ストーリー』(近畿化学協会編、化学同人刊、1989年)などがある。
杉浦 幸雄(すぎうら ゆきお、1911年6月25日 - 2004年6月18日)は、漫画家。
東京都出身。学業の傍ら本郷絵画研究会へ通う。郁文館中学(旧制)卒業後の1929年から岡本一平に師事。演劇にも熱中し1930年にはテアトルコメディの座員になるが、父親の会社が倒産し、役者になるのを断念して漫画家を目指す。
杉浦 明平(すぎうら みんぺい、1913年6月9日 - 2001年3月14日)は、日本の作家、評論家。愛知県渥美郡清田村(現、田原市古田町)の生まれ。
東京大学文学部国文学科卒業。在学中、一年下の後輩、立原道造と神田の古書店街周りの中で知り合い、共に同人誌をやったり、盛んに交流を持つ。立原道造は、杉浦の郷里渥美の伊良湖を訪れた時のことを随筆「夏秋表」に書き残している。立原は、1939年に25歳の若さで世を去ったため、彼の残された詩を編纂して、『立原道造詩集』(岩波文庫)として世に出したのは杉浦で、立原道造全集(全6巻)の編集にも加わっている。
大学卒業後、出版社などに勤めながら、イタリア・ルネサンスの研究を続け、その成果は、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上下、『ルネサンス巷談集』、『ミケランジェロの手紙』(いずれも岩波文庫所収)や『ピノッキオの冒険』、『チポリーノの冒険』(岩波書店)『クオレ』(河出書房新社)の翻訳などとなって現れた。
杉浦 正則(すぎうら まさのり、1968年5月23日 - )は日本の元野球選手(投手;右投げ右打ち)である。
和歌山県出身、橋本高校を卒業。オリックス・バファローズのコーチ、松山秀明は中学の先輩。
1991年に同志社大学商学部を卒業、社会人野球 社会人・日本生命硬式野球部 日本生命に入社。
翌年のバルセロナオリンピックでバルセロナオリンピック野球日本代表 日本代表に選出され、銅メダル獲得に貢献した。
4年後のアトランタオリンピックでもアトランタオリンピック野球日本代表 日本代表に選出され、銀メダルを獲得。
2000年のシドニーオリンピックでは一部プロ選手が参加することが確定していたことから代表入りが困難視されていたが、その経験を買われてシドニーオリンピック野球日本代表 代表入りを果たした。また、野球のみならず日本選手団全体の主将に指名された。結果としてメダル獲得はならなかったが、その強烈なキャプテンシーに触れた中村紀洋(大阪近鉄バファローズ 大阪近鉄)や黒木知宏(千葉ロッテマリーンズ 千葉ロッテ)らに大きな影響を与えたといわれる。
杉浦 日向子(すぎうら ひなこ、本名 鈴木 順子(すずき じゅんこ)、1958年11月30日 - 2005年7月22日 )は、日本の漫画家、江戸風俗研究家。東京都港区 (東京都) 港区出身。日本大学芸術学部中退。稲垣史生氏に時代考証を学び、1980年吉原を題材にした『通言・室之梅』(つうげん・むろのうめ)で漫画家としてデビュー。その作風は文芸漫画と呼ばれた。
浮世絵を下地にした独特な画風に特徴があり、江戸の風俗を生き生きと描くことに定評があった。
1993年に漫画家引退宣言をし、その後は自らのライフワークである江戸風俗や浮世絵の研究家として活動した。NHK総合テレビ「コメディーお江戸でござる」では江戸の歴史、風習についての解説コーナーを担当していた。2004年春に「コメディー道中でござる」へ番組がリニューアルしたのを期に、作家の石川英輔に解説役をバトンタッチ。 念願だった豪華客船で世界一周の旅をする、としていたがその実は闘病であったことが死後、発表された。下咽頭癌のため死去。46歳。
杉浦 直樹(すぎうら なおき、1931年12月8日 - )は、愛知県岡崎市出身の俳優。
1950年に内田良平 (俳優) 内田良平、小松方正らとともに新演劇研究所を設立し主に舞台で活躍。1958年に松竹に入社し映画に活動範囲を広げる。向田邦子作「父の詫び状」「あ・うん」、山田太一作「岸辺のアルバム」など、日本のテレビドラマ史に残る名作に数多く出演している。2006年9月、軽い脳梗塞で検査入院。
1984年に映画「ときめきに死す」でアジア太平洋映画祭助演男優賞を受賞。
1987年にドラマ「今朝の秋」で第25回ギャラクシー賞を受賞。
1994年に舞台「恋ぶみ屋一葉」で第2回読売演劇賞優秀男優賞を受賞。
杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年9月17日 - 2001年11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
立教大学時代、同期の長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)、本屋敷錦吾(オリックス・バファローズ 阪急ブレーブス)と三人で「立教三羽ガラス」と呼ばれ、1958年、福岡ソフトバンクホークス 南海ホークスに入団。
もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時肩を故障してアンダースローに転向した。このため、その投球フォームは下から投げつつも肘から先の使い方が上から投げていた頃そのままであり、これがボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がアンダースロー投法にぴたりとはまり、流れるようなフォームから威力抜群の快速球を生む要因となった。「手首を立てたアンダースロー」といわれたフォームは当時シーズン30勝を挙げた巨人の大友工を手本にしたといわれている。東京六大学野球通算36勝(立教OBとして最多)の大半(28勝)は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。早大相手にノーヒットノーランも達成した。