清水 隆行(しみず たかゆき, 1973年10月23日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手。右投げ左打ち、ポジションは外野手(主に左翼手)。背番号は9。毎年3割前後の打率を残すアベレージヒッターである。タレントのはしのえみと生年月日が同じ。
1995年のドラフト会議 ドラフト3位で東洋大学から読売ジャイアンツ入団。バントをあまりしない「恐怖の2番打者 打てる2番打者」としてレギュラーに定着。
長嶋茂雄監督時代は、監督の左右病のために左打ちということで左投手が苦手と思い込まれ(実際は.270以上打っていた)、代打を送られていたこともあったが、2002年に就任した原辰徳監督が「右左関係なく1番に起用」と宣言し、その年からは相手投手が右でも左でも打てる打者 バッターに成長した。
清水 草一(しみず そういち、1962年1月29日 - )は東京都新宿区出身の自動車評論家 モータージャーナリスト。慶應義塾大学法学部卒業。2005年11月に自らが興した編集プロダクション会社、有限会社フォッケウルフの代表取締役社長。MJブロンディという別名も持つ。小説家の清水一行は父。
1984年に集英社に入社、「週刊プレイボーイ」編集者を経て1993年に独立。週刊プレイボーイ時代に担当していた漫画家の池沢さとしの影響で大のフェラーリ好きとなり、自ら「大乗フェラーリ教教祖」を名乗るほどになる。1995年に出版した「そのフェラーリください!」(三推社/講談社)を始めとするフェラーリ関連の著作の数々は一部で話題となり、日本のフェラーリオーナーの数を増やした遠因とも言われる。この現象を氏自らは「フェラーリの大衆化」と呼んでいる。
清水 信之(しみず のぶゆき、1959年12月14日 - )は、日本のキーボーディスト、作曲家、編曲家である。元妻は歌手の平松愛理。
キーボーディスト、ギタリストとして知られ、ベースやドラムスなども演奏できるマルチプレイヤーとしても有名である。
・幼少時よりピアノを習う。なお小学生の時、同じクラスで同様にピアノを習っていたのが鳥山雄司であった。
・都立松原高校で後輩のEPO、佐橋佳幸らとバンド活動を行う傍ら、ミュージシャンの松岡直也に師事。清水がラテン系のアレンジに強いのはこの頃の経験によるものだとか。
・高校卒業後、スタジオミュージシャンとして活動を始める。
清水 章吾(しみず しょうご、1943年2月15日 - )は、東京都出身の日本の俳優。身長174㎝、体重65㎏。日本大学農獣医学部中退。女形役者の花柳章太郎の弟子。
大学中退後に花柳章太郎に入門、主にテレビや映画等で悪役やクセのある役として出演する事が多かったが、特に最近では2002年以降、アイフルのテレビコマーシャル テレビCMでチワワのくぅーちゃんと共演する等、良き父親ぶりを発揮し大ブレイク(しかし、このブレイクに関しては批判の声もある)。以来バラエティ番組等でも活躍している。サラリーマン金融のCMに対する社会的な風当たりが強くなり、今後のイメージ・ダウンが懸念されている。1988年まで、埼玉県所沢市に在住。最近埼玉県本庄市に豪邸を建てた。この豪邸はアイフル御殿と言われている。
清水宏次朗(しみず こうじろう 1964年11月10日-)は、東京都生まれの俳優、歌手である。氣志團の綾小路翔が最も尊敬する人物。
竹の子族出身で、竹宏治(たけこうじ)という芸名のアイドル歌手としてデビュー、「ビー・バップ・ハイスクール」での仲村トオルとのコンビ・ヒロシが当たり役となった。その後撮影時の怪我のため休業したが、1984年に再デビュー、Vシネマのヤクザ役を主に活躍した。仲村のようなテレビドラマの出演はあまり無い。顔が広岡瞬に似ていたため、広岡瞬の弟と間違われやすい。
「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)
「THE夜もヒッパレ」(日本テレビ放送網 日本テレビ)
清水 紘治(しみず こうじ、1944年2月11日 - )は京都府京都市左京区出身の日本の俳優である。活動屋所属。妻は女優の大谷直子。
実家は東映京都撮影所や、松竹京都撮影所のある太秦にあり、父は映画プロデューサーという映画や演技に関係する環境で育ち、少年時代から映画などに出演。京都府嵯峨野高校卒業後、俳優座養成所第14期生となる。同期には串田和美、吉田日出子、佐藤信、樋浦勉、原田芳雄らがいた。
文学座の研究生を経て1966年夏に「劇団自由劇場」を岸田、吉田、佐藤ら14名と共に旗揚げ、その後、黒色テント68/71(現黒テント)の設立にも関わるなど、いわゆる「アングラ演劇」(元々自由劇場の旗揚げ時に用意した劇場が地下にあったためそう呼ばれるようになったと言われている)で活躍。その傍ら、映画やテレビにも進出。実相寺昭雄作品の常連でもある。
清水 康次(しみず こうじ、1969年10月17日 - )は広島県広島市佐伯区出身の陸上選手、マラソン選手。広島県立西条農業高等学校 広島県立西条農業高校、大東文化大学卒。マラソンサブテン(10位以内)4度は瀬古利彦と中山竹通の5度に次ぐ日本人3位タイ、国内4度は中山と並び最多。37歳の今期も現役を続ける1990年代以降を代表するマラソン名選手の一人。身長176センチ、体重52キロ。
中学から陸上を始め、西条農業高を経て、大東文化大入学。箱根駅伝は1992年、4年時に1度だけ出場、2区・区間5位に終わりチームも5位。実井謙二郎らを擁して二連覇した母校の三連覇はならなかった。同年故郷のNTT中国(現・NTT西日本広島支社)に入社。1993年、アムステルダムマラソン(30キロ)優勝。1997年、東京マラソンで2時間10分09秒で優勝。世界陸上選手権アテネ大会58位(2.37.11.)。1998年、シカゴマラソン23位(2.19.58.)。1999年、東京マラソン3位(2.9.00.)。同年世界陸上セビリア大会7位.(2.15.50.)。2000年、東京マラソン8位(2.10.41.)。ニューヨークシティマラソン11位(2.18.55.)。札幌国際ハーフマラソン 札幌マラソンで、ハーフマラソン初優勝。同年、同郷で女子長距離の名選手だった麓みどりと結婚。しかしNTT西日本陸上部(当時、広島市)が、業績不振で2002年3月解散、同好会となりチームへの支援を打ち切った。実績を買われた清水だけが「シンボル選手制度」というシステムで個人支援を受ける。だが契約の更新は、成績いかんという条件付き。夫人や仲間のサポートを請けマラソンを続けた。2001年、福岡国際マラソン2位(2.09.28.)。2002年釜山アジア大会2位(2.17.47)。2003年、びわ湖毎日マラソン4位(2.08.28.)。同年世界陸上パリ大会21位(2.13.19.)。2004年、大阪の同好会が、「広島の同好会の選手のほとんどが大阪に移るなら」という条件つきで陸上部に格上げを決定。清水の異動は絶対条件だった。自分の練習をサポートしてくれた仲間のためもあり大阪への移籍を決意した。現在はコーチ兼任。
清水 健太郎(しみず けんたろう、1952年10月11日 - )は、福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)出身の日本の俳優、歌手。愛称はシミケン。
学生時代、小倉北区 小倉・魚町の東映会館前でスカウトされ、上京。その後、若者番組ぎんざNOWのコーナーで人気となり、そのアイドル的な顔つきで話題となる。この番組から飛び出した楽曲「失恋レストラン」(楽曲提供・つのだ☆ひろ)が1976年にリリースされ、爆発的ヒットとなった。翌1977年の日本レコード大賞新人賞受賞、NHK紅白歌合戦にも出場した。
しかし、人気の絶頂が過ぎた1983年に大麻取締法違反で逮捕(起訴猶予)。続けざまに1986年にも同じく大麻取締法違反で逮捕された(執行猶予4年)。その後、華やかな表舞台からは去り、当時出始めだったVシネマの方向に仕事を変えていく。
清水 馨八郎(しみず けいはちろう、1919年 - )は、山梨県出身の都市工学 都市工学者。博士 (理学) 理学博士。東京文理科大学理学部地学科卒。海軍兵学校教官、千葉大学教授を経て、現在千葉大学名誉教授。旭日章 勲三等旭日中綬章。都市交通研究の権威である。維新政党・新風の講師、イオンド大学(日本平和神軍経営)の教授を務めている。
一般には、都市交通研究の権威としてではなく、太平洋戦争(大東亜戦争)をアジア解放の戦争と主張する、自由主義史観系の評論家・論客として知られている。事実、清水が近年発表した本の多くは、彼の専門分野である都市工学とまったく関係がない。イオンド大学では歴史学を教えているが、歴史学の学位はない門外漢である。
清水 圭(しみずけい、1961年6月24日 - )は吉本興業に所属する男性タレント。本名、清水圭太(しみずけいた)。京都府宇治市出身。血液型はA型。
同志社香里中学校・高等学校、同志社大学商学部卒。
1984年、和泉修と漫才コンビ「圭・修 清水圭・和泉修(略称:圭・修)」を結成。ニッポン放送のラジオ番組、「圭・修のオールナイトニッポン」でパーソナリティーをつとめた。
『探偵!ナイトスクープ』でブレイクし、以後ピンの活動が増えて東京に進出する。
しかし、1993年に清水が東京に進出してからは、ピンでの仕事(主にクイズ番組のパネラー、レポーターなど)が多くなり、同年にコンビとしては活動休止状態になり、2001年に正式に解散。和泉は2001年に高山知浩(元ベイブルース)と漫才コンビ「ケツカッチン」を結成して活動中。
清水 國明(しみず くにあき、1950年10月15日 - )は、日本のアイドル・タレント・歌手・作家・釣り師、冒険家である。アウトドア・キャンプ愛好者としてあまりにも著名。
福井県大野郡 (福井県) 大野郡和泉村(現大野市)出身。福井県立大野高等学校、京都産業大学法学部卒。
1973年に、原田伸郎とのコンビで「あのねのね」として、「赤とんぼの唄」でデビュー。大ヒットを記録した。「あのねのね」結成当初は4人編成で、残る2人は笑福亭鶴瓶とその妻だった。
「あのねのね」時代は台本を書き、芸でも原田をリードする立場だった。80年代になると担当していたラジオ番組でリスナーからの一枚のハガキから話が膨らみ、鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場を宣言。当時、レースはおろかバイクの免許さえ持っていなかったが一念発起して二輪免許を取得。自身のサポートクラブ的団体である國武舞レーシングを主宰しバイク業界で精力的に活動を始める。84年には8耐の登竜門的レースである鈴鹿4時間耐久レースに出場、なんとか完走を果たす。翌85年も4耐に出場。その後、八耐出場に必要な国際A級ライセンスを取得し、1990年、元世界GPライダーの福田照男とペアを組み8耐に初参戦。予選で鎖骨を骨折するトラブルに見舞われながらも見事完走を果たした。そして、これをもってレース界からの引退を宣言する。90年代からはアウトドアに凝るようになった。山に篭って木を切ることを生きがいとしており、近年「復活ライブ」を行う際には原田が台本を書いている。原田はその際「勘弁してくれよ。俺、ネタなんか考えたことないねん」と語っている。