川口 容資(かわぐち ようすけ、1987年7月9日 - )は、大分県大分市出身の福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)である。背番号は65。
小学校3年時に地元の金池少年野球団で軟式野球を始める。
大分市立上野ヶ丘中学校から主に投手を務め、私立楊志館高等学校に進学。
3年時には全国高校野球選手権大会・大分県大会2回戦で敗退し、甲子園出場はならなかったものの、2005年高校生ドラフト会議 ドラフト5巡目で福岡ソフトバンクホークスに指名され、入団。全12球団で最後の指名選手となった。
188cmの長身から投げ下ろすMAX144km/hのストレートが武器。
長い腕を生かし、腕をしならせるフォームで球の威力を最大限に生かしている。
川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年9月25日 - )は平成期の日本放送協会(NHK)の第16代会長。鹿児島県川辺郡 (鹿児島県) 川辺郡川辺町 (鹿児島県) 川辺町出身。
県立川辺高校卒(旧制四中)、東京大学文学部卒業後、1950年NHKに入局。
『紅白歌合戦』を国民的番組に育て上げ多くの音楽番組の演出・制作で活躍し、その後制作局ドラマ部長として大河ドラマや当時新進気鋭のドラマ作家を起用し数々の番組作りにかかわる。常に現場にありながらも、専務理事・放送総局長また、NHK交響楽団理事長を歴任。そして1991年からは制作出身としては初のNHK会長を務め、1997年に退任。
鹿児島県出身の有名人一覧
川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年10月1日 - 1985年6月9日)は日本の小説家、劇作家。東京浅草出身。今戸小学校卒業。妻は女優の三益愛子。子は俳優の川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)。
洋服屋や、警察署の給仕、電信局などに勤めた後、久保田万太郎に師事する。
1935年、『鶴八鶴次郎』などで第1回直木三十五賞 直木賞を受賞。代表作の『愛染かつら』は、田中絹代・上原謙の主演で人気を博した。1973年には文化功労者に認定される。1985年6月9日死去。享年85。
筒井康隆の小説『大いなる助走』の鰊口冗太郎のモデルとしても知られる。
河口 正史(かわぐち まさふみ、1973年2月19日 - )はアメリカンフットボール選手。兵庫県川西市生まれ。
アメリカ合衆国 米国ニュージャージー州の小学校に通っていたときにアメリカンフットボールに出会う。早稲田大学本庄高等学院に進学しラグビーをはじめるが落第する。その後、高校時代、アメリカ帰りの帰国子女だった友人の影響で再び渡米、カリフォルニア州の高校(San Clemente High School)でプレー開始。卒業後、立命館大学国際関係学部入学と同時に立命館大学パンサーズに入部。1994年、甲子園ボウル優勝を経験した。
立命館大学卒業後、NFLヨーロッパへ参戦。アムステルダム・アドミラルズのラインバッカーとして活躍し、3年目には「オールNFLヨーロッパ」に選出された。
川口 浩(かわぐち ひろし、1936年8月22日 - 1987年11月17日)は映画俳優・タレント・探検家。東京生まれ。父は作家で大映専務の川口松太郎、母は女優の三益愛子。妻は女優の野添ひとみ。弟は俳優の川口恒、川口厚。妹は元女優で現在陶芸家の国重晶。
慶應義塾高等学校中退後、俳優座演劇研究所に入学。1956年、映画『裁かれる十代』でデビュー。同年、初の主演作『処刑の部屋』で注目を集める。以降、大映の看板スターとして多くの作品に出演。主演代表作に増村保造『妻は告白する』、小津安二郎『浮草』、市川崑『おとうと』などがある。
1962年に大映を退社以降は、テレビに活躍の場を移し、テレビドラマ『キイハンター』に出演。1969年、株式会社川口プロモーションを設立。競馬番組の解説のかたわら、1970年、川口浩探検隊の前身の『ザ・ショック!!』(日本テレビ放送網 日本テレビ系)を企画・出演。
河口 恭吾(かわぐち きょうご/1974年10月1日- )歌手・シンガーソングライター。作詞・作曲のクレジットは河口京吾。栃木県佐野市出身。佐野市立北中学校、栃木県立足利南高等学校卒業。
2002年4月~1年間エフエム滋賀でDJを務める。その時にリスナーとのコミュニケーションで作られた「オメガの記憶」が県内で話題を呼ぶ。
2003年4月に日立マクセル系のレコード会社から「桜」をリリースする。3月~7月まで有線ラジオ放送問い合わせチャートでダントツの1位を記録する。しかし、レコード会社がなくなり(日立マクセルが音楽事業から撤退のため、その事業会社であるマクセル・イーキューブを解散)、ワーナーミュージック・ジャパンに移籍。同年12月10日に「桜」を再リリースし大ブレイクする。
川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、昭和後期から平成期(1980年代-1990年代)のプロ野球選手(投手)。現在は野球解説者。鳥取県鳥取市出身。
吉岡温泉で食堂(旅館説もある)を経営していた家の、男ばかり三兄弟の末子として生を受ける。鳥取城北高等学校時は速球派投手として注目されるが、甲子園大会には縁がなかった。ただし2年の秋(1976年)に明治神宮野球大会に出場している(1-3作新学院高等学校 作新学院高)。3年時の1977年千葉ロッテマリーンズ ロッテオリオンズからドラフト6位指名を受けるが拒否し、社会人野球チームのデュプロ硬式野球部 デュプロを経て、1981年ドラフト会議 ドラフト1位で広島東洋カープに入団。