Takeshi Kaga
鹿賀 丈史(かが たけし 本名:勝田薫且 かつた しげかつ、1950年10月12日 - )は、俳優。石川県金沢市出身。 左利き。
石川県立金沢二水高等学校在学中は合唱部でテノール、指揮者として活躍。卒業後、浜口庫之助事務所を経て劇団四季に入団。音楽大学の浪人中、友人に勧められ一緒にオーディションを受けたのが入団のきっかけとなった。
劇団四季ではジーザス・クライスト=スーパースターのイエス・キリスト ジーザス役で主役デビューし、注目を集める。劇団退団後の1987年 レ・ミゼラブル (ミュージカル) レ・ミゼラブルのジャン・バルジャン役とジャベール役を滝田栄とのダブルキャストでこなし、舞台役者としての地位を確たるものとする。
加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年1月7日)は日本の俳優。本名は亀山 邦男(かめやま くにお)。東京都中央区 (東京都) 中央区日本橋人形町(旧・東京市日本橋区人形町)出身。慶應義塾普通部(現慶応義塾大学)中退。三男は俳優の志賀勝。
2002年1月7日に肺炎のため88歳で亡くなった。
大都会
忠臣蔵
大岡政談
男は度胸
水戸黄門(家老・大名・2代目菊亭(梅小路)左大臣)
宮本武蔵
宮本武蔵
日本の俳優 かかくにお
悪役俳優 かかくにお
加賀乙彦(かが おとひこ(本名は小木貞孝)、男性、1929年4月22日 - )は日本の小説家で精神科医。
1929年、東京市芝区三田に生まれた。東京都立新宿高等学校 東京府立六中を経て、1944年、100倍の倍率を突破して名古屋の陸軍幼年学校に入学するも、在学中に敗戦を迎えたため軍人への道が絶たれ、東京大学医学部を卒業。
東京拘置所医務部技官を経た後に、フルブライト奨学金を獲得してフランス留学を果たす。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、1960年帰国。同年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、1969年から上智大学教授。
1979年から文筆に専念。1987年のクリスマス(58歳)に遠藤周作の影響でカトリック教会 カトリックの洗礼を受ける。室生犀星とは7親等の血縁。
快楽亭 ブラック(かいらくてい ぶらっく)は、落語家の名跡。当代は2代目。
本名=ヘンリー・ジェイムズ・ブラック(男性、1858年12月22日 - 1923年9月19日)。日本名=石井 貎刺屈(ぶらっく)。イギリス国籍、オーストラリアアデレード生まれ。
慶応元年(1865年)、週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』の記者として招かれていた父の後を追って、母とともに来日した。明治11年(1878年)、講釈師の2代目松林伯圓に弟子入りし、1884年には三遊亭圓朝・三遊亭圓生(四代目)らの三遊派に入った。西洋小説を元にした翻案物や、自作の噺を行い、人気を博した。また、明治29年には日本初と言われる催眠術の公開実験を行ったり、高座で手品を行うなど、多芸の芸人として活躍した。明治36年には、落語をレコードに録音し、これが日本初のレコード録音となった。
海鵬 涼至(かいほう りょうじ 1973年4月17日 - )は、青森県西津軽郡深浦町出身の大相撲力士。八角部屋所属。本名は熊谷 涼至(くまがい りょうじ)。身長178cm、体重120kg。得意手は左四つ、下手投げ。趣味は漫画。最高位は西小結(2001年11月場所)。
漁師の長男に生まれる。小学校3年の時に全校生徒が出る祭りの相撲大会に出場したことをきっかけに
相撲を始め、日本大学でも活躍した。彼の同期には栃乃洋泰一 栃乃洋、よう司大 よう司(現準年寄よう司)らがいる。1996年1月場所に幕下付け出しで初土俵を踏む。1997年5月場所に新十両。その1年後の1998年5月場所には新入幕を果たす。2001年11月場所には新三役となる小結に昇進したが、2005年7月場所に右足を大怪我し、翌9月場所を全休。現在は十両に陥落しているが、幕内復帰を目指して土俵に上がっている。
海部 剛史(かいべ つよし、1969年2月20日 - )は大阪府堺市出身の俳優。
1991年「無名塾」入塾。「令嬢ジュリー」の村人F役でデビュー。1995年に放送された土曜ワイド劇場の「船長シリーズ7・瀬戸内潮騒の女」にてTVドラマに初出演。
代表作にやんちゃくれ(NHK)・レッド(東海テレビ)・蝉しぐれ(NHK)がある。
日本の俳優 かいべ つよし
1969年生 かいべつよし
Tsuyoshi Kaibe
海部 宣男(かいふ のりお、1943年9月21日 - )は、日本の天文学者、博士 (理学) 理学博士、第3代国立天文台長。新潟県新潟市出身。専門は電波天文学、赤外線天文学。
麻布中学校・高等学校を経て東京大学に入学。1966年東大教養学部基礎科学科を卒業。東大大学院理学研究科天文学専攻修士課程修了。1969年東大理学部助手となり、1979年東京大学東京天文台助教授に就任。1987年東京天文台教授に就任し、東京天文台が国立天文台に改組されたので国立天文台教授となった。初代国立天文台ハワイ観測所所長を務めた後、2000年4月に国立天文台の3代目台長に就任。2006年3月31日退任。
海部宣男は赤羽賢司と森本雅樹に師事した。特に森本は学問上の恩師というだけではなく、飲み仲間でもある。政治家で元内閣総理大臣の海部俊樹は宣男の従兄にあたる。
海部 俊樹(かいふ としき、1931年1月2日 - )は、昭和・平成期における日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(16期)。元内閣総理大臣(第1次海部内閣 76・第2次海部内閣 77代)。学歴は早稲田大学法学部 第二法学部卒業。学位は学士 法学士(早稲田大学)。
初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。現在は自民党最高顧問。派閥は二階グループに属す(最高顧問)。第43回衆議院議員総選挙以降、現職では最古参の衆議院議員である。
1931年(昭和6年)1月2日
愛知県名古屋市
早稲田大学第二法学部(最終学歴)
法学士(早稲田大学)
衆議院議員秘書
衆・懲罰委員会委員
愛知9区
自由民主党(二階グループ)
甲斐庄楠音(かいのしょうただおと 明治27年(1894年)12月23日 - 昭和53年(1978年)6月16日)は大正時代の日本画家、昭和20年代~30年代の風俗考証家。兄に高砂香料工業創業者である甲斐庄楠香がいる。
甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した一族で、江戸時代に徳川光圀の推挙で9500石の旗本となった裕福な武士であった。父・正秀は甲斐庄氏の跡継ぎ養子となった物の、後に離縁となり別家を建てたという事情があり、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。しかし、幼少時から喘息を患い病弱であり、過保護に育てられた。
中学校に入学してから絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)に入学し竹内栖鳳らに学ぶが、授業にほとんど出席しなかったため1年留年してしまう。その後専門学校、研究科と進む中でいくつかの展覧会に出品し、村上華岳に認められるようになる。大正7年(1918年)に国画会 国画創作協会に「横櫛」を出品。岡本神草の「口紅」とともに入賞候補に挙げられる。このとき、「横櫛」を推した村上華岳と「口紅」を推した土田麦僊とが互いに譲らず、結局、竹内栖鳳の仲裁で金田和郎の「水蜜桃」が受賞したのだが、このことで新進作家・甲斐庄楠音は有名になる。しかし、後に土田麦僊との確執を産む原因ともなる。大正11年(1922年)、帝展に「青衣の女」(ちなみに同年の国画創作協会落選作品であった)が入選したことで、大正13年(1924年)に国画創作協会の会友となる。定期的に作品を発表できる場を得た楠音は、その後精力的に作品を発表したが、大正15年(1926年)に国画創作協会に出した「女と風船」が土田麦僊に「きたない絵」とされ出品を拒絶される。昭和3年(1928年)には「新樹社」を結成し活動の場を移す。しかし昭和6年(1931年)に会員の大量脱退事件が起き、新樹社は実質解散に追い込まれる。