大山のぶ代(おおやまのぶよ、1936年10月16日 - )は昭和後期・平成期(1950年代後半~)の女優・声優。アクターズ・セブン所属。東京都出身。本名:山下 羨代(やました のぶよ)。東京都立三田高等学校卒業。
テレビ朝日版『ドラえもん (テレビ朝日版テレビアニメ) ドラえもん』において、ドラえもん (架空のキャラクター) ドラえもん役を長年担当していたことで知られている。
ドラえもん役で有名になったことから、専業声優として捉えられる事も多いが、本職は女優であり、数々のドラマに出演している。
声優業では、元々『ハリスの旋風』の石田国松のように、高いガラガラ声でやんちゃな喋り方をする演技が特徴だった。しかし、ドラえもんのキャラクターの作画デザインが変わるに連れ、1986年後半ごろから、徐々にベタッとした低い声でゆったりと喋る演技に変化。最終的にはこちらの喋り方が世間に定着し、ものまねでドラえもんの声が真似されるときも、ほぼ後者の喋り方である。
大山 加奈(おおやま かな、1984年6月19日 - )は日本のバレーボール選手。 東京都江戸川区出身。ニックネームはカナ、パワフル・カナ。
到達点
大山加奈は日本人離れしたパワーあるスパイクと人間性に優れている。小学生の頃から圧倒的な高さとパワーを誇っていたために守備を免除されていた事もあり、ディフェンス力には難があるが、この先日本のエースとしての成長が期待されている。
小学6年生の時にはすでに身長は175cmあり、全日本バレーボール小学生大会(ライオンカップ)で全国制覇を成し遂げた事によって、バレーの金の卵と注目される存在になった。成徳学園中学に進学後も、3年生の時に全日本中学校バレーボール選手権大会で優勝。成徳学園高校(現・下北沢成徳)では、3年時にインターハイ、国民体育大会 国体、全国高等学校バレーボール選抜優勝大会 春高の3冠を達成し、小中高全ての年代で全国制覇を経験した。2002年の世界選手権と釜山アジア大会では、ただ1人の高校生として選ばれる。
大藪 春彦 (おおやぶ はるひこ、男性、1935年2月22日 - 1996年2月26日) は、日本の小説家。京城生れ。高松第一高等学校卒業。早稲田大学教育学部中退。
11歳のときに香川県に移る。1958年(大学在学中)に『野獣死すべし』でデビュー。江戸川乱歩に評価される。1960年に、探偵作家の団体「他殺クラブ」に入るが、盗作疑惑をかけられ脱会。日本探偵作家クラブからも除名される。過激なアクション、銃、車の描写など日本のハードボイルド史上に残る作家。多くの作品が映画化されている。
代表作に「伊達邦彦シリーズ」のほか、『蘇える金狼』『汚れた英雄』など。
没後の1997年に業績を記念しミステリーやハードボイルド分野の優秀な作品に贈られる文学賞として大藪春彦賞が創設された。
大八木 淳史(おおやぎ あつし、1961年8月15日 - )は元ラグビー選手。
高等学校ラグビー界の名門・京都市立伏見工業高等学校 伏見工業高校ラグビー部で山口良治監督に師事。その後同志社大学に進学して全国大学ラグビーフットボール選手権大会 全国大学ラグビー大会優勝に貢献。1983年にはウェールズ遠征メンバーに選ばれ、テストマッチ出場(キャップ)を果たす。更にニュージーランド留学も行った。
1985年神戸製鋼所神戸製鋼コベルコスティーラーズ ラグビー部に就職。以来釜石シーウェイブス 新日本製鐵釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)と並ぶ7連覇の中心メンバーとして活躍した。日本代表出場歴も30試合重ねた。現役引退後も神戸製鋼に残り、ラグビーの指導・普及に努める傍ら、テレビタレント(松竹芸能所属)として各メディアにて活躍している。2005年同志社大学大学院に入学し、「地域スポーツクラブによる青少年の育成システム構築」についての研究を行う。
大谷 實(おおや みのる)は刑法学者。法学博士(同志社大学)。1934年10月生まれ。茨城県出身。
大学・大学院とも同志社で学んだが(秋山哲治教授門下)、刑法理論に関しては、「人格責任論」にみられるように、団藤重光東大教授の理論の影響が大きい。極論すれば、大谷の刑法理論は団藤刑法理論を出発点としていると言える。その後、平野龍一らの抬頭を受け、大谷は微妙にその立場を修正していったと言われる。大谷本人曰く、「団藤先生の理論は本で影響を受けた。もっとも、団藤先生ご本人にお目にかかったのはずっと後のことですが・・・」(前田雅英との対談)。同志社大学の教員となり、イギリス留学後、日本において早くから犯罪被害者の支援活動に取り組み、犯罪被害者等給付金支給法の制定に尽力した。この過程が木下恵介監督の映画『衝動殺人 息子よ』に描かれている。この映画のなかで大谷は中谷教授(配役は加藤剛)として登場する。その後も被害者支援に奔走。その熱意は、電話相談や給付金申請補助を行なう社団法人京都犯罪被害者支援センター設立に結実した。現在も同法人の理事長、その他、全国被害者支援ネットワーク特別顧問を務めている。法務省司法試験考査委員(昭和57年~平成7年)。日本学術会議会員(平成3年~平成12年)。法務省法制審議会刑事法部会部会長、法務省人権擁護推進審議会委員、日本被害者学会理事長。アマースト大学名誉博士。平成13年第17代同志社総長に就任した。キリスト教徒。
大宅 壮一(おおや そういち、1900年9月13日 - 1970年11月22日)は、戦後の日本を代表するマスコミ人、ジャーナリスト。毒舌の評論家として有名。
大阪府高槻市の醤油屋出身。18歳の時、米騒動に際して民衆蜂起を支持する演説をおこない、旧制茨木中学(現大阪府立茨木高等学校)を放校処分となる。専検(旧制高等学校入学資格検定)に合格して、第三高等学校に入学・卒業し、東京帝国大学文学部社会学科中退。
太平洋戦争(大東亜戦争)中の1941年(昭和16年)には海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属された。その際、同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の横山隆一がいた。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅が跋文を書いているが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である。」と言い放っている。