天野 浩一(あまの こういち、1979年4月12日 - )は、香川県出身の広島東洋カープ所属の野球選手 プロ野球選手(投手)。
高松東高では2年夏に捕手から投手に転向。その後四国学院大学に進み、四国六大学リーグ時代には1年の春からエースを務め、リーグ優勝5回をはじめ、最優秀新人賞・最多勝3回・最優秀防御率4回を受賞。四国六大学リーグ初のプロ野球選手として2001年ドラフト会議 ドラフト10巡目で広島東洋カープに入団。中継ぎの中心投手として活躍している。持ち球にナックル、パームを持つ。サークルチェンジの変形型の変化球、カープチェンジを開発するなど研究熱心。端整な顔立ちも魅力である。
天野 公義(あまの きみよし、男性、1921年3月2日 窶錀 1990年7月29日)は、昭和・平成期の政治家。元自治大臣。戦前に衆議院議員を務めた天野頼義(立憲政友会所属)は父。
現在の東京都荒川区生まれ。東京帝国大学文学部倫理学科、法学部をそれぞれ卒業後、同盟通信社の記者となる。戦後は1946年・1947年と総選挙に挑戦するが落選し、吉田茂首相秘書官を経て、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で旧東京6区から初当選を果たす。以後当選11回だが、落選は7回。
保守合同後は宏池会に所属する。文部、大蔵の各政務次官を経て、1976年三木内閣改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長兼北海道開発庁長官として初入閣するが、同年に行われた総選挙で、現職閣僚でありながら落選し話題となった。大都市部の保守系議員の宿命というべきか、元々選挙のたびに苦戦を強いられていた。1989年予算案の与党単独採決に抗議して河野洋平、鯨岡兵輔らと共に本会議欠席。1990年総選挙で落選後、政界を引退。同年7月29日急性心不全のため死去。享年69。
天野郁夫(あまの いくお、1936年1月7日 - )は教育学者。専門は教育社会学。教育制度・教育政策などが日本社会にとって持つ意味などを研究。日本学術会議会員。元日本教育社会学会会長。元日本高等教育学会会長。2006年から一橋大学経営協議会学外委員。神奈川県生まれ。
『試験の社会史』でサントリー学芸賞を受賞。
1958年 一橋大学経済学部経済学科卒業
1961年 東京大学教育学部教育学科卒業
1963年 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了
1966年 東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学
1990年9月 教育学博士(東京大学)
1966年 国立教育研究所研究員
1971年 名古屋大学教育学部助教授
宝塚歌劇団のスター、理事 この項で記述
バラの品種の一。1.に因んで命名。1960年兵庫県伊丹市で作出
天津乙女(あまつ おとめ、1905年10月9日-1980年5月30日)は宝塚歌劇団で最初の東京都出身の劇団員(生徒)で日本舞踊に優れた名手であり、芸名は小倉百人一首の一句によりちなんでいる。本名:鳥居栄子(とりい・えいこ)、愛称:エイコさん。
1918年、宝塚音楽学校 宝塚音楽歌劇学校に入学。
1948年、歌劇団理事に就任。
1958年、紫綬褒章受章。
1976年、勲四等宝冠章受勲。
1980年、在団のまま死去。
宝三番叟
鏡獅子
四つのファンタジア
姫蜘蛛
恋河童
舞踊一代
宝塚名曲選
天地 総子(あまち ふさこ、1941年1月3日 - )は、歌手、声優。プロダクションフーコ所属、代表。国立音楽大学付属高校卒業。
童謡や子供向けの歌から、大人向けの歌までレパートリーは広い。特にコマーシャルソングを数多く歌っていて、「コマソンの女王」と呼ばれたこともある。
阪田寛夫作詞、服部公一作曲で1965年10月にレコードで発売された「マーチング・マーチ」で1965年の日本レコード大賞童謡賞を受賞。
現在、社会福祉活動を行い、地方公演も行っている。
東京都出身。
オバケのQ太郎(1985年)(Q太郎)
とんでモン・ペ(花村モンペ)
メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行(ペリリュンヌ)
天知 茂(あまち しげる、1931年3月4日 - 1985年7月27日)は、日本の俳優。歌手としても活躍。本名、臼井 登(うすい のぼる)。
愛知県名古屋市出身。旗本水野成之 水野十郎左衛門の子孫。芸名は大ファンである中日ドラゴンズの天知俊一監督と杉下茂投手が由来。
東邦商業学校(現・東邦高等学校)卒業後、1949年に松竹へ入社。しかし仕事がなく、しばらく不遇をかこった後、新東宝を経て大映に移る。新東宝時代の1959年、中川信夫監督作品『東海道四谷怪談』で民谷伊右衛門役に抜擢され、迫真の演技力により注目される。大映に移籍後は『座頭市物語』の平手造酒役での個性的な演技で頭角をあらわし、悪役俳優として注目されるようになったが、当人は普通の二枚目役を望んでいたので不満だった。しだいに役域を広げる機会に恵まれ、1965年には三島由紀夫の依頼により、美輪明宏主演舞台『黒蜥蜴』(脚色は三島)で明智小五郎役を演じ、これが大当たりの役となる。
天田 益男(あまだ ますお、1958年 1月20日 - )は、日本の俳優、声優。
兵庫県出身。劇団青年座所属。
役者活動のほか、声優養成所・江古田エンターテイメントアカデミーで講師を務めている。
アークザラッド(ダイン)
EAT-MAN (ノワール)
陰陽大戦記(霜花のライデン、邪宝船)
頭文字D 頭文字D Fourth Stage(会川=ランエボVの男)
剣風伝奇ベルセルク(ピピン)
超魔神英雄伝ワタル(オヤッサーン)
しましまとらのしまじろう (タヌキ、雪だるま)
中華一番!(ロウコ)
東京アンダーグラウンド(溶)
トライガン(モネヴ・ザ・ゲイル)
NARUTO(マンダ)
人形草紙あやつり左近(岸川肇)
天田 俊明(あまだ としあき、1934年8月22日 - )は、日本の俳優。
群馬県伊勢崎市出身。群馬県立前橋高等学校卒業。
大好き!五つ子シリーズ
七人の刑事
刑事鬼貫八郎
ウルトラマンダイナ
ジャンボーグA
ひばりの佐渡情話
七人の刑事
七人の刑事 女を探がせ
東京オリンピック音頭 恋愛特ダネ合戦
幕末
あさき夢みし
ファイナル・スキャンダル 奥様はお固いのがお好き
走れジュリー
天田愚庵(あまだぐあん 嘉永7年7月20日 (旧暦) 7月20日(1854年8月13日) - 明治37年(1904年)1月17日)は、日本の江戸時代から明治の歌人。本名天田五郎(あまだごろう)。清水の人。桐野利秋から大層親切に面倒を見てもらっていた。手に職を付けるため東京の写真技師の下に入門して技術を身につけ、写真師として肉親を尋ねる旅に出たが、再び清水に戻った。清水次郎長逮捕の報を受け、次郎長の釈放に奔走する事になる。漢詩をよくした。
1854年(嘉永7年) 福島で生誕
1868年8月30日(明治元年7月13日 (旧暦) 7月13日 15歳) 薩長軍の攻撃を受けて平城が落城し、自宅に残してきた両親と妹が行方不明になった事を知る
天勢いづる(あませいづる)は、宝塚歌劇団の雪組娘役。かつては男役だったが、2004年7月15日、娘役に転向した。誕生日は9月19日。身長は164cm。愛称はあませ、ちぃ、ちあき、いづる、ペッパー。
松川浩子は幼馴染。
趣味はピアノと旅行。
芸名は家族で考えたらしい。
特技は三点倒立。
猫を飼っており、名前は「れおん君」。性別は男。種類はアメリカンショートヘア。
男役時代から備え持つ安定した芝居力・ダンス・そして元男役とは思えない伸びやかなソプラノの歌声と三拍子の実力を持つ中堅娘役スター。
下級生時代から高い実力が評価され、新人公演で主要な役柄を好演していた。
天沢退二郎(あまさわ たいじろう、1936年-)は、日本の詩人、仏文学者、国文学者、児童作家、翻訳家。宮沢賢治の研究の第一人者としても有名。元明治学院大学文学部フランス文学科教授。
1936年東京生まれ。3歳のとき満州に渡り、1946年に帰国するまで現地で育つ。東京大学文学部フランス文学科卒業。1977年に『詩集 Les Invisibles』で 第15回・藤村記念歴程賞を受賞。2001年に第11回・宮沢賢治賞を受賞。『幽明偶輪歌』で第53回読売文学賞・詩歌俳句賞を受賞。 2002年秋に紫綬褒章叙勲を受章。
『宮沢賢治の彼方へ』(思潮社)
『朝の河』(国文社)
『幽明偶輪歌』
『道道』
『血と野菜」
『乙姫様』
尼子 騒兵衛(あまこ そうべえ、1958年 - )は日本の漫画家。本名は片根 紀子。兵庫県尼崎市出身。尼崎小田高等学校、佛教大学文学部史学科卒業。電通勤務を経て漫画家となる。代表作の『落第忍者乱太郎』は現在も朝日新聞 朝日小学生新聞紙上に期間限定で年二回連載中、単行本は39巻まで発表されている。
ペンネームの由来は兵庫県尼崎市生まれで「騒々しい」ことから。一見男性のような名前であるが、本名の通り女性である。このペンネームは少女漫画誌に作品を投稿した際、締め切りが迫っていたために適当に決めたようで、戦国大名の尼子氏とは関係ない。
「落第忍者乱太郎」連載のきっかけは、朝日小学生新聞編集部が、ギャグ漫画の描ける女性漫画家を探していたところ、ある漫画家を通じて紹介があったことから。しかし当時の騒兵衛はしばらく漫画を描いていなかったため、「乱太郎」初期の絵はほとんど素人同然であった(後に本人自ら「素人に頼むなんていい度胸してるよ」と自嘲気味に述べている)。だが、回を増すごとに絵は洗練されてゆき、「乱太郎」は小学生を中心にじわじわと人気を得、1993年、NHK教育テレビによって「忍たま乱太郎」としてアニメ化された。
天児 慧(あまこ さとし, 1947年7月17日 - )は政治学者。専門は、中国政治、アジア現代史。
岡山県生まれ。1971年早稲田大学教育学部卒業後、東京都立大学大学院を経て、1980年一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士号(一橋大学)を取得。
1982年琉球大学助教授、1986年から1988年まで外務省嘱託専門調査員兼任、1990年共立女子大学国際文化学部助教授、1993年同教授、1994年青山学院大学国際政治経済学部教授、1999年アメリカン大学客員教授、2001年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授。アジア政経学会理事長(1999年-2001年)。
『中国革命と基層幹部――内戦期の政治動態』(研文出版, 1984年)
天木 直人(あまき なおと、1947年7月19日 - )は元駐レバノン特命全権大使、作家。
イラクにおける武力行使、対イラク政策を巡るレバノン大使として意見を具申した二通の公電により外務省から外交官を「解雇」され(外務省は人事の問題であって「勇退をお願いした」と主張)、外務省を告発する書物が話題となった。
山口県下関市生まれ。洛星高等学校から京都大学法学部入学。大学在学中の1969年、外交官試験に合格。中退し、上級職として外務省に入省。ナイジェリア勤務などの後、1985年10月から1988年7月までの外務省中近東アフリカ局アフリカ第二課長時代に南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)問題に取り組み『ネルソン・マンデラ マンデラの南ア 日本の対応』を出版、印税は同国に寄付。内閣官房内閣安全保障室内閣審議官、駐マレーシア公使を経て、駐オーストラリア公使、駐カナダ公使、駐デトロイト (ミシガン州) デトロイト総領事、2001年より駐レバノン日本国特命全権大使。2003年に外務省を退職。