安西 篤子(あんざい あつこ、1927年8月11日 -)は、日本の小説家。神戸市生れ。神奈川県立第一高等女学校(現神奈川県立横浜平沼高等学校)卒。
幼少時をドイツ、中国で過ごす。中山義秀に師事して小説を書き始め、『張少子の話』で直木三十五賞 直木賞。1993年には『黒鳥』で女流文学賞を受賞した。
1964年 『張少子の話』で第52回直木三十五賞 直木賞
1993年 『黒鳥』で第32回女流文学賞
1994年 神奈川文化賞
日本の小説家 あんさい あつこ
直木賞受賞者 あんさい あつこ
淡谷 のり子(あわや のりこ、本名:淡谷のり、女性、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の歌手。日本のシャンソン界の先駆者であり、代表曲から「ブルースの女王」と呼ばれる。デビュー当初は、綺麗なハイトーンで素直な歌唱だったが、やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌った。最近では音楽的な側面から「淡谷のり子=ブルース」という表現に【異議あり】という意見も少なからず見受けられるようになってきた。津軽ジョッパリ(強情張りの意)を地でいく反骨精神に支えられた戦前・戦中・戦後の歌手活動や、終生変えることのなかった津軽弁を話す歌手として知られた(正確に言うと、話す言葉は標準語なのだが、イントネーションが津軽人特有のものだった)。
粟屋 敏信(あわや としのぶ、昭和元年(1926年) ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。官僚。
建設省 建設事務次官を経て、
昭和61年の総選挙で、旧広島1区から自民党公認で出馬し初当選。連続当選5回。
衆議院地方行政委員長等を歴任するが、平成15年に政界を引退する。
広島県出身。
自由民主党_(日本) 自由民主党
新生党、新進党、太陽党、民政党、無所属の会
日本の国会議員 あわや_としのふ
広島県の政治家 あわや_としのふ
日本の官僚 あわや_としのふ
粟屋 剛(あわや つよし、1950年 - )は生命倫理学者である。
山口県美祢市生まれ。日本医事法学会、日本生命倫理学会、日本法社会学会、日本法医学会、国際生命倫理学会などに所属する生命倫理の第一人者である。現在は岡山大学大学院医歯薬学総合研究科教授。
1973年 九州大学理学部化学科卒業
1983年 西南学院大学大学院 博士 法学 満期退学
1981年4月 宇部短期大学助手
1983年4月 同専任講師
1988年4月 同助教授
1990年4月 徳山大学経済学部助教授
1995年4月 同教授
2002年4月 岡山大学大学院教授
粟屋憲太郎(あわや けんたろう, 1944年-)は、日本の歴史学者。専門は、日本現代史、とくに東京裁判の研究で知られる。
東京大学文学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科修了。神戸大学講師・助教授を経て、現在、立教大学文学部教授。
『昭和の歴史(6)昭和の政党』(小学館, 1983年)
『東京裁判論』(大月書店, 1989年)
『未決の戦争責任』(柏書房, 1994年)
『十五年戦争期の政治と社会』(大月書店, 1995年)
『現代史発掘』(大月書店, 1996年)
『東京裁判への道(上・下)』(講談社[講談社選書メチエ], 2006年)
(田中宏・三島憲一・広渡清吾・望田幸男・山口定)『戦争責任・戦後責任――日本とドイツはどう違うか』(朝日新聞社[朝日選書], 1994年)
阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、昭和末期から平成期(1980年代後半~1990年代)のプロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。神奈川県横浜市旭区 (横浜市) 旭区出身。同期の西崎幸広とはトレンディーエースと呼ばれライバルだった。
高校は横浜市立桜丘高等学校、大学は亜細亜大学で、大学の同期にパンチ佐藤、一つ後輩に元中日ドラゴンズ 中日の与田剛がいる。
1987年 読売ジャイアンツ、横浜ベイスターズ 横浜大洋ホエールズとの3球団競合の末、ドラフト会議 ドラフト1位で大阪近鉄バファローズ 近鉄バファローズに入団。背番号は14番。先発ローテーションに通年で加わり、最多奪三振(201個)を挙げ、この年最優秀新人 (野球) 新人王獲得。
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は日本の俳人。本名は阿波野俊雄。昭和初期に、山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス (雑誌) ホトトギス』の四Sと称された。
奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。幼少の時に耳を患い、以後、難聴となる。1913年(大正2年)奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。県立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)教師・原田浜人の勧めで俳句を学ぶようになる。1917年(大正6年)原田浜人宅で催された句会で大和郡山市 郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師事する。虚子は難聴であっても大成している俳人・村上鬼城を紹介し青畝を激励した。
粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - )は日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。
背景やフォルムを緻密な線や混沌とした色彩で構成し、一見ファインアートであるかのような作風が特徴であるとされる。実際に油彩作品も多数制作している。
東京都目黒区出身。法政大学専門部中退。絵画・デザイン技法は独学である。
1955年の日本宣伝美術界展(日宣美)で日宣美賞受賞。1960年に建築家の有志を募り『メタボリズム』を結成する。その後武蔵野美術大学商業デザイン学助教授科に就任、デザイン教育に携わる。1966年に『エンバイラメント』の会を結成、翌年の1967年頃から日本万国博覧会 大阪万国博覧会のテーマ館別構想計画などを練る。その他、国内外問わず国際的なプロジェクトに参加している。1990年、紫綬褒章受章。
粟田 麗(あわた うらら、1974年8月21日 - )は、日本の俳優 女優。
神奈川県出身。ライディーン所属。
玉川大学文学部芸術学科演劇専攻卒業。
血液型・O型。身長160cm。趣味・特技はモダンバレエ、ピアノ、お菓子作り。
舞踊家の母の影響で3歳からモダンバレエを始め、中学・高校時代は数多くの舞踊コンクールで入賞。1994年、バレエのニューヨーク・ブロードウェイ公演に参加。一方で芝居に興味を持ち、俳優養成所に入所。1995年、映画『東京兄妹』の主役に抜擢され女優デビュー。この作品で第19回山路ふみ子映画賞・新人女優賞を受賞。以後、現在までテレビドラマや映画で活躍中。
『仮面ライダー剣』で共演した栗原遥香役の山口香織里の丁度前日が誕生日。また俳優・杉崎政宏と同じ生年月日でもある。
淡島 千景(あわしま ちかげ、大正13年(1924年)2月24日 - )は、日本の俳優 女優。
東京生まれ。
昭和14年 - 25年まで宝塚歌劇団に所属。在団中は優れた美貌の娘役で戦時中・戦後と宝塚歌劇団 宝塚歌劇を支え、月組で久慈あさみ、南悠子と同期トリオを結成。2人の男役から愛される娘役スターとして人気を得る。
:手塚治虫の漫画『リボンの騎士』のサファイア王女のモデルとなったのは、宝塚時代の彼女といわれている。
退団後は映画界に転向、『てんやわんや』でデビュー、第1回ブルーリボン賞 (映画) ブルーリボン賞演技賞を受賞。以後『夫婦善哉』(第6回ブルーリボン賞主演女優賞)、駅前シリーズなどに出演するほか、総合女優として舞台やテレビでも息の長い活躍を続けている。
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名:淡島宝受朗、1859年(安政6年)10月23日 - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。
広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉に紹介したエピソードで有名である。
収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には三千あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
日本橋 (東京都) 日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
淡路 仁茂(あわじ ひとしげ、1950年3月21日 - )は、日本の棋士 (将棋) 将棋棋士。棋士番号113。兵庫県神戸市出身。藤内金吾門下。
受けにおいて粘り強い棋風を持ち、それは不倒流と呼ばれる。対局の手数が延びることから、長手数の美学というキャッチフレーズがついた。クラスは下がったが現在でも勢いのある若手を止める存在として重鎮的存在感を発揮している。後手番一手損角換わり戦法の産みの親 あまり知られていないが現代矢倉の基礎的な変化をまとめた功績もある
しかしウッカリも多く、今までの将棋棋戦で二歩を3回、二手指しを2回、さらに成れない所に角を成った合計6回と記録上の反則負けが最も多い。
淡口 憲治(あわぐち けんじ 1952年4月5日- )は、昭和後期から平成期(1970年代~1980年代)のプロ野球選手。兵庫県出身。右投げ左打ち。ポジションは外野手。現役時代は腰をプリっと振るフォームからスピーディーな打球を飛ばす「コンコルド打法」の持ち主であった。
また、彼を代打に送ろうとした長嶋茂雄監督がバントの構えをして『代打、淡口』と球審に告げたことは有名な話である。
1971年に三田学園高からドラフト会議 ドラフト3位で巨人に入団。1975年には、低迷するチームの中で頭角を現し、規定打席不足ながらも打率.293の成績を残し、将来を嘱望された。翌1976年には北海道日本ハムファイターズ 日本ハムファイターズから張本勲が移籍。張本、柳田真宏 柳田俊郎、末次利光 末次民夫とのレギュラー争いに敗れ、それからは代打の切り札として活躍した。1983年にプロ入り初の規定打席到達。打率.302の成績を残したが、駒田徳広や吉村禎章といった若手の台頭もあり年々出場機会が減少し、1985年オフ、有田修三とのトレードで山岡勝投手と共に大阪近鉄バファローズ 近鉄バファローズに移籍。1986年に115試合出場、打率.297の成績を残し、外野手のレギュラーを獲得した。1989年の日本シリーズでは古巣の巨人と対戦。第2戦で後輩の桑田真澄から同点タイムリーを放つ。この日本シリーズを花道に現役引退。