最近の有名人・芸能人 姓名判断 1517

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 1517

野崎一

野崎 一(のざき ひとし, 1922- )は日本の有機化学 有機化学者。京都大学名誉教授、工学博士。
1943年 京都帝国大学工学部化学科を卒業。
京都大学工学部講師、助教授を経て1963年教授に昇任。
1985年 同大学名誉教授、岡山理科大学教授。
1985-;86年度 有機合成化学協会会長。
1993年 岡山理科大特任教授。
1996年 退職
1979年 日本化学会賞、1986年 日本学士院賞、紫綬褒章、1992年 勲二等瑞宝章、1993年 有機合成化学特別賞。
カルボカチオンを基盤としたテルペン類の合成、カルベノイドを利用した新規反応の開発などに取り組み、戦後復興期にあった日本有機化学界を牽引する業績を挙げた。特に各種金属元素の性質を複合的に利用した新規反応は、当時日本の化学のレベルを世界に印象づけるものとなった。中でも野崎・檜山・岸反応は、穏和な炭素-炭素結合生成反応としてパリトキシンやエンジイン系抗生物質など、複雑な化合物の合成に数多く応用されている。

野崎歓

野崎 歓(のざき かん、1959年 - )は、新潟県生まれのフランス文学者。
東京大学仏文科卒、一橋大学助教授を経て東京大学大学院総合文化研究科助教授。
映画評論、文芸評論も手がける。著書に「ジャン・ルノワール 越境する映画」、訳書に「映画と国民国家」、東大助教授の斎藤兆史との共著に「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」がある。東京大学教養学部では映画論の講義を、同教授松浦寿輝と担当。本人は、スマートで笑顔の素敵な、まるで少年のような屈託のなさをもった好人物である。
『ジャン・ルノワール越境する映画』(青土社)
『フランス小説の扉』(白水社)
『谷崎潤一郎と異国の言語』(人文書院)

野坂昭如

野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年10月10日 - )は作家、歌手、作詞家、元参議院議員である。放送作家としての別名は阿木由紀夫、シャンソン歌手としての別名はクロード野坂。現在は脳梗塞のリハビリを続けており、「新潮45」に連載中の「女嫌い」は休載している。
新潟県副知事野坂相如(すけゆき)の息子として神奈川県鎌倉市に生まれ、張満谷(はりまや)家の養子として兵庫県神戸市灘区に育つ。なお、この時代の友人は現在でも当時のあだ名「ハリマン」と呼んでいる。11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が養子であることを知り、後には妹2人も別々に養子として入る。その後、上の妹を病気で、1945年の神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした。後に福井県で妹を亡くした経験を贖罪のつもりで「火垂るの墓」を記した。つまり清太のモデルが彼自身で、節子のモデルは妹ということである。17歳の時、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、新潟高等学校 (旧制) 旧制新潟高校に編入。なお、高校の上級生に丸谷才一がいた。

野口祥順

野口 祥順(のぐち よしゆき、1981年5月16日 - )は、東京ヤクルトスワローズ所属のプロ野球選手。ポジションは内野手。背番号は55。
主に二塁手 二塁・遊撃手 遊撃を守る。一軍では守備固めや代走で起用されることが多い。
1999年 - ヤクルトにドラフト会議 ドラフト1巡目で指名を受け、入団。
2004年 - 11月に右肩を手術。
身長/体重 - 185cm/72kg
投/打 - 右/右
出身地 - 茨城県
血液型 - A
球歴 - 茨城県立藤代高等学校 藤代高-東京ヤクルトスワローズ ヤクルト(2000年~)
プロ入り年度/ドラフト会議 ドラフト順位 - 1999年/1巡目
今季年俸(推定) - 1000万円
2005年シーズン終了時
117試合 128打数 36得点 29安打 5ホームラン 本塁打 17打点 (野球) 打点 11盗塁 7犠打 1犠牲フライ 犠飛 15四死球 39三振 3併殺#併殺打 併殺打 打率.227

野口悠紀雄

野口悠紀雄(のぐちゆきお、1940年12月 - )は、元官僚、経済学者。専門は、日本経済論、ファイナンス理論
幼いころに父を失い、母親に育てられる。
東京都立日比谷高等学校 都立日比谷高校卒業
1963年東京大学工学部卒業
大蔵省(現・財務省 (日本) 財務省)に入省。
1972年、計5年間に渡り経済学を専攻し、米国イェール大学にて、Ph.D(経済学博士号)を取得。
以後、埼玉大学、一橋大学、東京大学教授を経て、東京大学先端経済工学研究センター長を最後に退官。
2000年より青山学院大学大学院国際マネジメント研究科教授
2004年、スタンフォード大学客員教授
2005年4月より、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授

埜口保男

埜口 保男(のぐち やすお、1958年 - )は、自転車での世界的冒険家。普段は千葉県立病院に勤務する。JACC所属、茨城県出身、千葉県在住。
幼少時代の病弱な体質を自転車に乗り続けることにより克服する。大学受験に失敗したのち看護系の専門学校を卒業。のちに看護士となる。専門学校時代の夏休みを利用して東北縦断、北海道を一周する。このことによりキャンプ生活を主体とした自転車旅行をベースにしていく。その後、資金をためて世界一周旅行へと旅立つ。北アメリカ大陸・南アメリカ大陸をまわり、ユーラシア大陸、そして肝炎を患いながらもアフリカ大陸を走破。オーストラリア大陸を縦断し、帰国。世界五大陸を自転車にて旅行する。また、後に第二ラウンドと称し、以前は渡航上の制限(ビザの発給上の難しさなどにより)のあった中米や東欧などを旅行する。自転車に関わる著書で「自転車野郎養成講座」や「自転車漂流講座」などがある。信念は「命に関わる無茶はしないこと」で、これは多くのサイクリストが海外での旅行中に事故死するという現実を受けてのものと思われる。友人であり冒険家であった河野 兵市の半生を語った著書、『みかん畑に帰りたかった』で小学館ノンフィクション大賞2002年受賞。

野口三千三

野口 三千三(のぐち みちぞう、1914年 - 1998年)は、野口体操の創始者。元東京芸術大学教授。
群馬師範学校(群馬大学)卒業後上京。のち東京芸術大学教授
野口体操教室を主宰。野口体操の普及に努めた
「原初生命体としての人間」
「子どものからだは蝕まれている」
「野口体操・からだに貞く」
「野口体操・おもさに貞く」
北野武
倉林和宏
木暮実千代
体操 のくち みちそう

野口みずき

野口 みずき(のぐち みずき、1978年7月3日 - )は、日本の女性マラソン選手である。夏季オリンピック オリンピック・マラソン マラソン競技金メダリスト。神奈川県出身。三重県伊勢市で育つ。血液型はO型。150cm,40kg。女子マラソンの日本記録保持者、アジア記録保持者である。
中学1年から陸上競技 陸上を始めた。三重県立宇治山田商業高等学校 宇治山田商業高校時代には3000mでインターハイに出場、駅伝でも活躍した。
1997年にワコールに入社したが、1998年 翌年10月、会社と対立した藤田信之監督がコーチであった真木和や少数の選手を連れて辞任すると、野口もこれに従った。一時は失業給付を受けながらも現役を続行。

野口美佳

野口 美佳(のぐち みか、1965年1月13日 - )は、下着通販会社ピーチ・ジョン代表取締役社長である。宮城県仙台市生まれ。『マネーの虎』にも出演していた。
高校卒業後、上京しグラフィックデザインを学ぶ。デザイン事務所や通販会社などの様々な仕事を経験。1986年に結婚。一度は離婚するが復縁する。1994年に女性向け通信販売会社ピーチ・ジョンを設立する。“女性のため”ということを徹底した輸入下着が大ヒットし、年商160億円以上の会社に成長。全国に16の直営店を経営。しかし、2003年に再び離婚し、現在は4人の子供を育てながら会社を経営している。
女優の吉川ひなのとはピーチ・ジョンのCM出演以来親交があるほか、ライブドアの堀江貴文社長とも親交がある。また、歌手の浜崎あゆみとは親友関係である。

野口晴哉

野口 晴哉(のぐち はるちか、1911年9月(明治44年) - 1976年6月(昭和51年))は、日本の整体指導者で野口整体の創始者。
12歳のときに関東大震災に被災し、このとき本能的に手をかざして治療をしたことを契機に、治療家を目指したという。後に松本道別に学ぶ。10代で道場を開き、門人を育てた。古今東西の治療法や自らの研究から、整体操法をまとめあげた。「整体」という言葉は野口の発明とされる。
昭和20年代後半には、人間の感受性研究の成果として体癖論(これも野口の造語)をまとめる。1956年(昭和31年)に旧文部省の認可を受けて社団法人整体協会を創立。昭和30年代に治療を志向することを捨て、自らの活動を「体育」であると位置づけるようになった。

野口寿浩

野口 寿浩(のぐち としひろ、1971年6月24日 - )は、千葉県習志野市出身。平成期(1990年代-)のプロ野球選手。ポジションは捕手・外野手・一塁手。
1989年ドラフト会議 ドラフト外で東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズに入団。ヤクルト時代は古田敦也の控え捕手だったが、1998年に城石憲之とのトレードで北海道日本ハムファイターズ 日本ハムファイターズに移籍すると正捕手の座を獲得する。2000年にはチームが優勝争いするとともに自身も打率.298を残し、「ビッグバン打線の恐怖の8番」と謳われた。(この年、隠れた記録ではあるが、当時西武ライオンズの松井稼頭央とともに捕手としては非常に珍しいパ・リーグ三塁打王(11本)になる)ヤクルト時代は古田の陰に隠れていた(1994年は古田がケガをしたため野口がしばらくレギュラー)が、当時の野村克也 野村監督にリード面などを叩き込まれ、毎日試合後に野村が行う講義を熱心に聴き、腕が痛くなるほどノートに写していた。これが日本ハムで成功するきっかけとなった。

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