徳田 八十吉(とくだ やそきち)は、九谷焼の陶工の名前である。2005年5月現在は3代目。
初代徳田八十吉(1873年11月20日 - 1956年2月20日)は、吉田屋窯風の作風を得意とした。号は鬼仏、。指導者として浅蔵五十吉、2代目、3代目徳田八十吉等を育てる。
二代徳田八十吉(1907年11月1日 - 1997年9月8日)は、1923年に初代の養子となり師事する。1956年、二代徳田八十吉を襲名。1988年 八十吉の名を長男に譲り百々吉を名乗る。初期の号は、魁星
三代徳田八十吉(1933年9月14日 -)は、金沢美術工芸大学中退。初代、二代等に師事。1988年に三代を襲名。1997年、重要無形文化財「彩釉磁器」の保持者(人間国宝)に認定される。釉薬で色彩を調整した鮮やかな群青色に強い個性がある。初名正彦
徳田 虎雄(とくだ とらお、1938年2月17日 - )は、医療法人 特定医療法人徳洲会理事長、自由連合最高顧問(前代表)、元衆議院議員。当選4回。鹿児島県徳之島出身。
大阪大学医学部を卒業後、1973年自らの名前を冠化した「徳田病院」を大阪府松原市に設置する。それをもとに1975年、徳洲会が設立された。「生命(いのち)だけは平等だ!!」をスローガンに安心して療育できる環境作りを目指し、全国各地に病院や診療所を開設している。(徳洲会の項も参照)
1983、1986年の衆議院総選挙に鹿児島県奄美群島選挙区から立候補も落選、保岡興治との島を二分するほどの激しい選挙戦は「保徳戦争」と呼ばれる。
徳田 秋声(とくだ しゅうせい、男性、1872年2月1日(明治4年12月23日) - 1943年11月18日)は、石川県金沢市生まれの小説家)である。本名は末雄。
明治4年12月23日(旧暦)現在の金沢市横山町に加賀藩の陪臣横山雲平の第6子(3男)として誕生。(翌年の誕生日が暦の変更の為来なかった事もあり、生涯誕生日は12月23日、年齢は数え歳で通した。)小学生時代、一学年下に泉鏡花がいたが、この時点では顔見知り程度であった。明治21年(1888年)第四高等学校 (旧制) 第四高等中学校に入学。翌年上級生から小説家になる事を勧められ志す。明治28年(1895年)尾崎紅葉の門下に入る。明治36年(1903年)長男 一穂(1903年 - 1981年)誕生。同年 紅葉死去。
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年9月12日 - 1953年10月14日)は、日本の革命家。日本共産党書記長、衆議院議員を務めた。
沖縄・名護出身。「球一」の名は、琉球一の人物になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒業後、第八高等学校 (旧制) 旧制第八高等学校に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別的対応に反発して退学、その後苦学して日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1920年日本社会主義同盟に参加、1921年にソビエト連邦 ソ連を訪問。1922年、非合法の日本共産党結成に参加。1925年、1927年にもソ連に渡った。1928年の三・一五事件で検挙され、獄中で18年を過ごした。
徳田 章(とくだ あきら 1952年2月24日 - )は、日本放送協会 NHKのエグゼクティブアナウンサー。神奈川県鎌倉市出身。神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校、日本大学法学部卒業。1975年、アナウンサーとして入局。大のベンチャーズ・マニアで、NHK-FMの『ポップス・グラフィティ』『ミュージック・プラザ』にゲストで呼ばれたこと数回。また『おーいニッポン・神奈川県』で得意のエレキを披露したこともある。きよしとこの夜ではNHKアナウンサーとして唯一ワハハ本舗のタレントで下品な鼻豆芸を披露することで有名な梅垣義明から豆を飛ばされるというトホホなエピソードも持つ。
ピタゴラスイッチ (ナレーション 2002年4月~)
徳重 聡(とくしげ さとし、1978年7月28日-)は日本の俳優。静岡県静岡市駿河区出身。石原プロモーション所属。
静岡市立高等学校卒業後、サッカーのスポーツ推薦にて立正大学社会福祉学部に入学。同大学4年次の2000年に「21世紀の裕次郎を探せ!」でグランプリを獲得し芸能界デビュー。数年間の基礎的レッスンを経て俳優活動を始めた。
石原慎太郎原作のTVドラマ『弟 (テレビドラマ) 弟』では、若き日の石原裕次郎を熱演した。
2006年4月の「愛のエプロン」スペシャルで料理が苦手なことが判明。愛エプ上で「石原軍団の問題児」と言われ、舘ひろしには「石原軍団のインリン・オブ・ジョイトイ インリン」と言われてしまった。
徳川義寛(とくがわ よしひろ、1906年11月7日 - 1996年2月2日)は、昭和天皇の側近。尾張国尾張藩(名古屋藩)藩主徳川慶勝の孫で、常陸宮正仁親王妃華子の伯父。
1906年、尾張徳川家分家、徳川義恕(よしくみ)の長男として東京都に生まれる。1930年、東京大学を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)。1936年、侍従となり、1985-1988年は入江相政のあとをうけて侍従長を務めた。
1936年(昭和11年)11月20日 - 侍従
1969年(昭和44年) - 侍従次長
1985年(昭和60年)10月-1988年(昭和63年)4月 - 侍従長。
太平洋戦争末期、天皇の玉音放送をめぐって起きた未遂クーデター、宮城事件を描いた書著および映画「日本のいちばん長い日」に侍従として登場する。
徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、昭和8年(1933年)12月24日~平成17年(2005年)11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、徳川黎明会会長、徳川美術館長。
旧佐倉藩主だった堀田氏 堀田伯爵家に生まれる。学習院幼稚園から学習院大学まで明仁親王(今上天皇)の同級生であった。尾張家20代当主徳川義知の養子となり、尾張家第21代の家督を継承する。銀行員から学芸員の資格を取得し、昭和51年(1976年)第19代当主徳川義親 義親が創設した徳川黎明会・徳川美術館館長に就任し、旧大名家の家宝を収集する。特に尾張家旧蔵であった名物 大名物《金花》の茶壺を再発見し、同家に買い戻した逸話は名高い。
徳川 慶朝(とくがわ よしとも 1950年2月1日 - )は日本の写真家。徳川幕府第15代征夷大将軍 将軍徳川慶喜の曾孫で、旧公爵徳川慶喜家の後継者。徳川の徳の字は、正式には「四」と「心」の間に「一」が入る正字(德)を使う。母方を通じて松平容保の曾孫でもある。
1950年、元公爵で元貴族院議員の徳川慶光を父として、会津松平家出身の松平和子 徳川和子(旧姓松平)を母として静岡市郊外の瀬名に生まれ、生後1-2ヶ月で東京都港区 (東京都) 港区高輪に移住。小学校から東京都府中市 (東京都) 府中市の学校法人明星学苑 明星(めいせい)に学ぶ。明星大学(めいせいだいがく)卒業後、写真家として本田技研グループ傘下の広告代理店 広告制作会社に20年間勤務し、広告写真の分野で活躍。現在はフリーランス フリーで活動している。フリーとして独立した後は主に徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を中心に撮影している。
徳川夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は講談師、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組でも活躍したタレントの走り。
島根県益田市に生まれ、東京に育つ。本名は福原駿雄(ふくはら・としお)。大正から昭和中期にかけて多方面で活動し、日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。「彼氏」「恐妻家」という語を初めて創った人物。
東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校 都立日比谷高校)を卒業したが、第一高等学校 (旧制) 一高(現在の東京大学教養学部)の入学試験に二度失敗し、1913年(大正2年)に活動写真(映画)の弁士となる。芸名は活動写真=無声映画の「無声」から「夢声」と付けたと思われる。音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、漫談や演劇に転じる。1916年(大正5年)に明治大学に入学したが演劇に夢中になり、「授業はテキスト通りでつまらない」とほとんど出席せず、進級しようにも単位も足りなかったが一年で退学に至る。1937年、岸田国士、杉村春子らの文学座に参加。また文筆に優れ、1938年(昭和13年)の直木賞候補にもなった。
德川 恆孝(徳川恒孝、とくがわ つねなり、1940年- )は、徳川将軍家 徳川宗家第十八代当主(1963年-)。実父は東京銀行会長・松平一郎。実兄には日本英語交流連盟理事 専務理事・松平恒忠、実弟には早稲田大学国際情報通信研究センター客員教授・松平恒和がいる。学習院大学経済学部卒業。学位は学士 経済学士(学習院大学)。元日本郵船副社長。財団法人徳川記念財団初代理事長。社団法人横浜港振興協会会長。
父:松平一郎(御家門の会津松平家分家当主、東京銀行会長)
母:徳川豊子(徳川宗家当主家正の娘)
義父:徳川家正(徳川宗家第十七代当主、恒孝の外祖父)
妻:幸子(旧姓:寺島。元客室乗務員。元伯爵寺島宗従の娘。元侯爵細川護立の外孫)
徳川家広(德川家廣、とくがわいえひろ、1965年 - )は、翻訳家である。父は、徳川宗家十八代目当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝。
学習院高等科卒後、学歴 最終学歴はコロンビア大学大学院政治学研究科。学位は、修士 (学位) 経済学修士(ミシガン大学)、修士 (学位) 政治学修士(コロンビア大学)の二つを有している。
学習院高等科時代は、文芸部に所属していた。
慶応義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大学で経済学修士号を取得。国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部勤務。その後、米コロンビア大学で政治学修士号を取得(国際関係論)。2001年に帰国し、フリーの翻訳家となり、現在に至る。
徳井優(とくい ゆう、1959年9月28日 - )は、大阪府大阪市出身の日本の俳優。身長158cm、体重52kgのA型。本名は徳井利次。
1978年、東映京都俳優養成所入所。旧芸名は立原繁人であったが、1987年に今の芸名「徳井優」と改名。
1991年には結婚。
サカイ引越センター 引越しのサカイのCMに出ていることでも有名。
1996年 『金田一少年の事件簿 (テレビドラマ) 金田一少年の事件簿』
1996年 『イタズラなKiss』
1996年 『結婚しようよ』
1997年 『いとしの未来ちゃん』
1998年 『天うらら』
1998年 『ショムニ』
1998年 『剣客商売』
1999年 『ケイゾク』
2000年 『QUIZ』
2001年 『Love Story』
2001年~『ママまっしぐら!]』