炭谷 銀仁朗(すみたに ぎんじろう、1987年7月19日 - )は、プロ野球・西武ライオンズの捕手である。愛称は銀ちゃん。
なお「朗」の字は、ヘンが一画多い「良」になる表記が正しい。
強肩・強打が持ち味。高校通算本塁打数は48本、2005年の全国高校野球選手権大会京都府大会では満塁でも敬遠されている。高校2年の時、先輩投手の変化球を取れず、内野手に転向したが懸命な努力で3年時に再び捕手に返り咲いた。
キャンプからその頭角を現し、オープン戦でも2本塁打、5割近い盗塁阻止率をマークするなど高卒新人とは思えない活躍。これにより、谷繁元信以来17年ぶりとなる高卒新人捕手の開幕一軍、さらには2006年3月25日のオリックス・バファローズ戦では谷本稔以来、51年ぶりとなる高卒ルーキー捕手の開幕戦スタメンデビューまで果たした。また、この試合では7回に中堅へ安打を放ったが、高卒新人が開幕戦で安打を放ったのは、立浪和義以来2リーグ分裂後4人目の快挙。また翌3月26日の試合では19歳の涌井秀章と共にバッテリーを組み初勝利、10代バッテリーとして17年ぶりの勝利となるなど、捕手としての最年少記録を次々と記録している。
住宅顕信(すみたく けんしん、 昭和36年(1961年)3月21日 - 昭和62年(1987年)2月7日)日本の俳人。本名・春美(はるみ)
岡山県岡山市に生まれる。
岡山市立石井中学校卒業後、昭和51年(1976年)4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学、同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しみ始める。昭和53年(1978年)3月下田学園卒業。
昭和55年(1980年)父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、昭和57年(1982年)9月より中央仏教学院の通信教育を受講。翌昭和58年(1983年)4月、教育課程修了。7月西本願寺にて出家。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釈顕信と名乗る。10月同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土宗の根本教典「無量寿教」に因み無量寿庵と名付ける。
角田 勝次(つのだ かつじ、1944年 - )は、昭和時代の日本のバスケットボール選手。現明治大学女子バスケットボール部コーチ。
群馬県吾妻郡東吾妻町(旧・吾妻町 (群馬県) 吾妻町)
群馬県立高崎工業高等学校
明治大学
2m近い長身で、電車の網棚にのせた荷物を座ったままとれたという
明治大学に進学、主力選手として活躍。全日本学生選手権優勝などの実績を残す
1960年代を代表する日本のトッププレーヤーとして活躍
1964年、東京オリンピックに日本代表として出場。日本は10位に入った
現役引退後、明治大学女子バスケットボール部のコーチとして後進の指導にあたっている。選手時代の経験を生かした的確なコーチングには定評がある。
住田 裕子(すみた ひろこ、1951年6月21日 - )は日本の弁護士。兵庫県加古川市出身で兵庫県立加古川東高等学校、東京大学法学部を卒業。東京・大阪等各地の検察庁 地方検察庁検事、法務省民事局付検事、司法研修所教官、法務大臣秘書官事務取扱などを経て1996年3月31日に法務省訟務局付検事を最後に退官、同年弁護士となった。夫も元検事の弁護士。
1977年、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に「造田裕子」の名で出演。
退官後は「行列のできる法律相談所」などのテレビ番組に出演する一方で、本業では主に女性を中心とした不当差別・ハラスメント問題や、男女共同参画など積極的に取り組んでおり、政府広報のCMに出演しそれを訴えた。現在獨協大学で特任教授を務める。「行列のできる法律相談所」において離婚を扱う事例では、事情に関わらずほとんど全て「離婚出来ない」の判定を出す(2005年10月16日放送分と2006年6月11日放送分が、「離婚出来る」と判定したまれな例)。また同番組で男女間のトラブルの事例では必ず女性側を支持する判定を出すため、一部の視聴者から「住田は物の見方が偏っている。」と批判を受けている。
角田 華子(すみだ はなこ 1971年9月17日-)は、兵庫県出身のフリーアナウンサー・タレント。セントフォース(女性タレント・キャスター専門事務所)所属。血液型はAB型。大阪芸術大学工芸学科卒。
1991年、今宮戎神社のミス福娘に選ばれ、その後朝日放送の早朝情報番組おはよう朝日ですのアシスタントキャスターを担当。1994年に上京し、セントフォース所属のタレントとして、フジテレビジョンの早朝報道番組めざましテレビ初代お天気キャスターとしてレギュラー出演。他にラジオパーソナリティーなども務める。
その後結婚し、現在は福岡市在住。2006年10月7日から、テレビ西日本の「土曜NEWSファイル CUBE」2代目女性キャスターとなることが、同社から発表された。
澄田信義(すみた のぶよし、1935年2月20日-)は島根県出身で現島根県知事。元日本国有鉄道(現JR)常務理事。
島根県立出雲高等学校を経て1957年(昭和32年)東京大学法学部卒業。
その年の4月に国鉄に入社し新幹線総局次長や監察局長等を歴任し1986年(昭和61年)常務理事となる。
翌年4月には島根県知事選挙に出馬・当選し現在5期目。平成15年には全国知事会副会長に就任。
ちなみに、澄田氏が卒業した年に出雲高校からは3人が東大に進学し、一人は知事、一人は神主、もう一人は弁護士になっている。
都道府県知事・市町村長 すみたのふよし
1935年生 すみたのふよし
島根県の政治家 すみたのふよし
ビシバシステムは1989年に結成された日本のお笑いコンビ。プロダクション人力舎所属。
コンビ名は中村有志が命名。「石橋を叩いて渡る」を文字ってつけた。
住田隆(1966年1月7日 - 、東京都出身)
ふせえり(1962年9月22日 - 、東京都出身、1994年より加入。本名・旧芸名は布施絵里。)
個々の活動の方が多い。住田はレポーター、ふせは女優業が中心である。
西田康人(1994年まで在籍。役者になるために脱退。後に緋田康人に改名)
「パオパオチャンネル」(住田・西田時代、テレビ朝日)
「東京イエローページ」(住田・西田時代、ビシバ加入前のふせも共演、TBS)
「水曜どうでしょう」(北海道テレビ放送)
澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - )は群馬県出身の第25代日本銀行総裁。陸軍中将澄田来四郎の長男。
1940年、東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。しかし、戦争の為、すぐに大蔵省を離れ、海軍経理学校に入校・卒業し、その後、従軍先のセレベス島にて終戦を迎える。戦後、大蔵省に復帰すると、順調に出世の階段を上り、1969年には同省事務次官に就任。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として天下り、輸銀退任後には日本銀行に進む等、所謂「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが前川が輸銀時代には澄田の部下であった為(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省のロイヤル・ロードを極めたのは、山際正道・森永貞一郎に続いて3人目のことであった。
住田 功一(すみだ こういち 1960年1月14日~)は、日本放送協会 NHKのチーフアナウンサー。兵庫県神戸市灘区出身。兵庫県立神戸高等学校、神戸大学経営学部卒業。1983年入局。NHK熊本放送局 熊本→NHK鳥取放送局 鳥取→NHK放送センター 東京→
NHK大阪放送局 大阪の順に勤務。
かんさいニュース1番 2003.4~
芋たこなんきん(NHK朝の連続テレビ小説、2006年度下半期) ナレーション 2006.10~
NHKニュースおはよう日本 (平日7時台担当) 1994.4~1995.3
生活ほっとモーニング 1995.4~2000.3
NHKニュースおはよう日本 (平日5 ・ 6時台担当) 2000.4~2003.3
『語り継ぎたい。命の尊さ- 阪神大震災ノート』
澄川 喜一(すみかわ きいち、1931年 - )は、元東京芸術大学学長で彫刻家。現在島根県芸術文化センター「グラントワ」センター長・石見美術館長に就任。島根県六日市町(現吉賀町)生まれ。
「そりのあるかたち」シリーズで知られる。新制作協会会員。紫綬褒章、紺綬褒章、日本芸術院賞、日本芸術院恩賜賞などを受賞。
「そりとそぎのあるかたち」 1981年 神戸市中央区楠町4・神戸市立中央体育館北側
日本の彫刻家 すみかわきいち
角居勝彦(すみいかつひこ、1964年3月28日石川県金沢市出身-)は日本中央競馬会 日本中央競馬会(JRA)の調教師である。栗東トレーニングセンター 栗東の中尾謙太郎厩舎、松田国英厩舎で調教助手を務め2000年に開業。
初出走は2001年3月11日の阪神競馬第6競走でのセトノマックイーン(5着)。初勝利は同年3月24日の阪神競馬第9競走でのスカイアンドリュウ(延べ8頭目)であった。翌2002年の東京スポーツ杯2歳ステークスをブルーイレヴンで制して重賞初勝利。
2004年は関屋記念をブルーイレヴンで制するほか、菊花賞をデルタブルースでグレード制 GI初優勝。通算30勝を挙げ、関西リーディングで10位に入るなど、躍進をみせた。
角 盈男(すみ みつお、1956年6月26日 - )は、昭和後期から平成期(1970年代後半-)のプロ野球選手、野球解説者、タレント(太田プロダクション所属)。左投げ左打ち。巨人時代の登録名は角 三男(一時期角 光雄)。
鳥取県米子市出身。鳥取県立米子工業高等学校から三菱三原硬式野球クラブ 三菱重工三原を経て、1976年のドラフト3位で読売ジャイアンツから指名を受け、翌年に入団。1年目の1978年に5勝7セーブで最優秀新人 (野球) 新人王を獲得。翌年は制球の悪さが顕在化し不調に陥ったが、1980年にオーバースローをサイドスローに改造して開眼。
球速こそ落ちたものの、致命的なコントロールの悪さがこれで改善された。先発では無駄球が多く完投能力が低かったものの、リリーフとしては変則的なフォームでタイミングが取りづらく、地肩が強く連投が利くという長所を生かした形となった。抑えのエースとして活躍し、1981年に8勝20セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得。その後、他球団に研究されたことと、制球を乱して救援失敗することが度々あり精彩を欠いたが、鹿取義隆と入れ替わる形で中継ぎとして起用され、長く巨人のリリーフ陣の核として活躍。
角 富士夫(すみ ふじお、1956年5月31日 - )は、東京ヤクルトスワローズ ヤクルトスワローズに所属した内野手。ポジションはおもに三塁手。右投げ右打ち。現在二軍打撃コーチを務める(背番号は76)。現役時代の背番号は41→5。
1975年 ドラフト会議 ドラフト2位で福岡第一高よりヤクルトに入団。
1991年 ゴールデングラブ受賞(三塁手部門)
1994年 現役引退。
1995年 ヤクルトのコーチに就任。
パンチ力のある打撃力と、堅実な守備を武器に長らく三塁手のレギュラーとして活躍。一時は首位打者争いにも加わった1978年には唯一のオールスターゲーム出場。この年の日本シリーズでは第2戦で超特大のホームランを放ち、翌第3戦ではスタメン出場するも、怪我のため日本一の胴上げには加われなかった。1987年にはボブ・ホーナー入団のあおりを受け、レギュラー剥奪されるも、翌年からはレギュラー復帰。1990年には生涯唯一の打率3割を記録、ゴールデングラブ賞を獲得する。晩年の1992年・1993年にはリーグ優勝、特に1993年のシリーズでは15年ぶり日本一の瞬間を三塁手として迎えた。
住博司(すみ ひろし、1954年8月19日 - 1998年7月11日)は日本の政治家。富山県魚津市出身。厚生政務次官などの要職を歴任した。自由民主党所属。
第二次中曽根康弘内閣で法務大臣を務めた住栄作の次男。早稲田大学政経学部学部卒業。NHK入局。放送記者として活躍。1987年、NHK退職。のちに内閣総理大臣に就任した宮沢喜一の秘書となる。1990年、衆議院議員選挙に父の地盤を引き継ぎ富山1区から立候補。衆議院議員初当選。宮沢派に所属した。1993年の総選挙ではトップ当選を果たした。1996年、小選挙区比例代表並立制導入に伴い、富山2区へ移る。しかし、84.8%という高得票率(全国トップ)で当選。1997年11月、腸閉塞のため入院。その後一時復帰したものの入退院を繰り返し1998年7月11日、多臓器不全のため慶応大学病院で死去。享年43。7月14日に増上寺慈雲閣にて葬儀が行われた。葬儀委員長は当時自民党幹事長だった加藤紘一。