金井 美恵子(かない みえこ、1947年11月3日-)は日本の小説家・詩人。群馬県高崎市生まれ。群馬県立高崎女子高等学校卒業。姉の久美子は画家で、美恵子の作品のブックデザインも手がける。
幼少の頃より映画を見つづけて、大の映画好きとして知られる。映画監督ジャン・ルノワールの大ファン。蓮實重彦や山田宏一との親交が深い。小説に関しては、フローベールを枕頭の書とする。
独特の長く官能を刺激する文体でよく知られる。大学へ行かずに、1967年『愛の生活』で太宰賞次席、現代詩手帖賞を受賞して、小説と詩作の二分野から作家生活を始めた。自身はもともと小説を書くことを志望していたが、詩を書くようになったのは、天澤退二郎などの『凶区』の同人と交流を持つようになったためだった。『春の画の館』を境に、詩作していない。「書くこと」が意識された多くの作品は、しばしばヌーヴォー・ロマンと共に言及される。『プラトン的恋愛』で第7回泉鏡花文学賞受賞。『タマや』で第27回女流文学賞受賞。
叶井 俊太郎(かない しゅんたろう、1967年 - )は、日本の映画配給会社トルネード・フィルムの代表取締役社長。東京都出身。
東京都立園芸高等学校卒業。ハワイインターナショナルカレッジ卒業。
同社在職中は、大手配給会社が見向きもしないエログロ変態映画から恋愛映画まで(所謂B級映画 B級C級映画)幅広いジャンルの映画を買い付け、宣伝した。本人曰く勘違いして買い付けた『アメリ』(2001年公開)が興行収入16億円の大ヒット。一躍映画業界注目の人物となる。
その後、アルバトロスを退社して2005年にトルネード・フィルムを設立し代表取締役社長に就任。『ヅラ刑事』や『日本以外全部沈没』(2006年)では、企画を担当している。
金井 茂(かない しげる、1969年10月18日 - )は、東京都出身の俳優。身長182cm。
自ら応募した日本テレビ開局40年記念イベント「第1回ミスター日本グランプリ」で準グランプリを獲得、世紀末御三家の一人でデビュー。95年「重甲ビーファイター」のレギュラーを経て翌96年の映画「嗚呼!!花の応援団」で念願の主役となる。その後事務所移籍の際に芸名を伊達駿太郎(だて しゅんたろう)と改名するが現在の事務所に移籍して再び芸名を戻す。
現在は役者業と平行して夫婦でネイルサロンを経営している。
実はかなりのアナログ人間でデジタル機器が大の苦手とのこと。(河合亞美 河合亜美のHPのダイアリーより)
加登脇 卓真(かどわき たくま、1987年6月12日 - )は読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手(投手)。背番号は67。
身長・体重 184cm 85kg
投打 右投げ左打ち
出身地 京都府城陽市
血液型 A型
球歴・入団経緯 北照高校→巨人(2006年~)
プロ入り年度・ドラフト会議 ドラフト順位 2005年(高校生対象ドラフト3巡目)
中学時代はボーイズで全国制覇後、高校は京都から北海道へ野球留学。1年からレギュラーに定着し、投手・打者両方で活躍した。高校通算34本塁打を記録。しかし、3年間で惜しくも甲子園出場はならなかった。プロには投手として入団。
1軍出場なし
日本の野球選手 かとわき たくま
読売ジャイアンツの選手 かとわき たくま
鹿取克章(かとりかつあき)は日本の外交官。
2006年7月31日まで外務省報道官を務めた。後任は坂場三男中南米局長。在任中には、上海総領事館員自殺事件やドミニカ移住者問題などの対応にあたった。以後は大使へ転出する予定。
日本の外交官 かとりかつあき
鹿取 義隆(かとり よしたか、1957年3月10日 - )は、プロ野球選手。現役時代は読売ジャイアンツ、西武ライオンズで中継ぎ・抑えとして活躍した。ポジションは投手。引退後は巨人のコーチを経て現在はスポーツ報知野球評論家、TBS系の衛星放送 BSデジタル放送ビーエス・アイ BS-iで野球解説を務める他、タレントの萩本欽一が主宰して結成するクラブチーム・「茨城ゴールデンゴールズ」のヘッドコーチを務める。2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の投手コーチにも選ばれた。岡林洋一は遠い親戚に当たる。
明治大学時代は高橋三千丈(元中日)の控え投手であった。江川事件により巨人がドラフト会議をボイコットした1978年オフ、ドラフト外で入団する。プロ入りすると中継ぎながら活躍し、1987年には抑えの切り札として63試合に登板しリーグ優勝に貢献するが、惜しくも最優秀選手 MVPは逃した(MVPに選ばれたのは山倉和博)。巨人ファンの間では「鹿取大明神」と崇められ、当時の王貞治監督がコールする「ピッチャー鹿取」、また「酷使される」という意味で使われた「カトられる」は流行語となった。その後は勤続疲労からか精彩を欠き、1989年オフ、西岡良洋との交換トレードで西武に移籍した。西武では抑えとして復活し、移籍1年目の1990年には最優秀救援投手に輝きその後も中継ぎ、抑えで西武の黄金期を支えた。投手コーチとしては個々の選手の特性のあった指導をし、普通投球中に頭を動かす選手に対しては修正を促すのだが、頭を下げて投げる日本ハムの岡島秀樹 岡島(元巨人)に対して、あれが一番合った投げ方なんだと頭を下げるなといわなかった。巨人に復帰したときヘッドコーチでなく投手コーチであったなら巨人の成績も大きく違ったのではないかと考えられる。
楫取魚彦(かとり なひこ、享保8年3月2日 (旧暦) 3月2日(1723年4月6日) - 天明2年3月23日 (旧暦) 3月23日(1782年5月5日))は、江戸時代中期の国学者・歌人。本姓は伊能氏で、父は伊能景栄(かげまさ)。名は景良。通称は茂左衛門。号は青藍・茅生庵(ちぶあん)。生れは下総国香取郡佐原。
はじめは俳諧をたしなみ、建部綾足の門に入って片歌をつくり、あわせて絵画を学んだ。その後、賀茂真淵に師事して古学を修め、仮名遣いの書「古言梯(こげんてい)」を編集・出版し、好評を博した。
著書には「古言梯」のほかに「万葉集千歌」「楢の嬬手(ならのつまで)」があり、歌集に「楫取魚彦家集」がある。