今井通子は、東京都出身の医師・登山家。東京女子医科大学泌尿器科非常勤講師。日本泌尿器科学会指導医・専門医。
女性としてはじめてマッターホルン・アイガー・グランドジョラスの北壁を制覇・山頂で高橋和之 (登山家) 高橋和之と結婚。
カモシカ同人ダウラギリ4峰遠征には医師として同行。
:夫で隊長の高橋との夫婦喧嘩を隊員に見つかりばつの悪い思いをしたという。
その後冬のエベレストに夫婦でダブルアタックを試み話題になったが失敗。
1987年、チョ・オユーに夫婦で遠征。
近年は地球環境保護問題や自然と健康のかかわりなどについて各地で講演活動などを行っている。
今井の両親は1979年11月、ニュージーランド航空機による南極遊覧飛行中の墜落事故の犠牲となった。
今井 美希(いまい みき、1975年5月30日 - )は、日本の女子走り高跳び選手である。2001年9月15日横浜市で行われたスーパー陸上で1メートル96の日本記録を樹立した。身長174cm、血液型はB型。愛知県出身。
愛知県立瑞陵高等学校、中京女子大学を経てミズノトラッククラブに所属したが、2005年9月25日の全日本実業団対抗陸上競技選手権大会を最後に競技の第一線から退いた。
現役中は日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)を3連覇、日本陸上競技選手権大会 日本選手権で5度の優勝を果たす。2000年のシドニーオリンピックで日本代表となる。
1995年、1998年、2001年、2003年、2004年に優勝。
今井 美樹(いまい みき、本名も同じだが、結婚により現在は布袋 美樹 ほてい みき、1963年4月14日-)は日本の女優、歌手である。
出身は宮崎県高鍋町。宮崎県立高鍋高等学校 宮崎県立高鍋高校を卒業後、スチュワーデスを目指し上京。
デビュー前の1982年には、読者ダイエットモデルとしてアンアンに出ていたこともある。翌1983年、ファッション系女性情報誌エムシーシスター 『エムシーシスター』(mc Sister)でモデルとしてデビュー。1984年、山田太一脚本のTVドラマ『輝きたいの』で女子レスラー役として女優をスタート。1986年に『黄昏のモノローグ』で歌手デビュー。しなやかでエレガントな歌声で多くのヒット曲を生んだ。レコード会社のディレクターが今井のオーディションテープの歌声を聴き、「何が何でも世に問うべきだ」というほど惚れ込んだという。1988年に、資生堂秋のキャンペーンソングになった4枚目のシングル「彼女とTIP ON DUO」のヒットでブレーク。1989年の「瞳が微笑むから」と1991年の「PIECE OF MY WISH」の両バラードは共にミリオンセラーになる爆発的ヒットとなり、1994年の「Miss You」、1996年の「プライド PRIDE」のバラードも大ヒットし、歌手としての人気を不動のものとした。共感を呼ぶ等身大のラブソングが特にOLに共感を呼び、その憧れを集めるカリスマ的存在となる。
今井 信子(いまい のぶこ、1943年3月18日 -)は東京生まれのヴィオラ奏者。女性演奏家である。現在は、オランダに在住しデルモント音楽大学の教授を務めている。ヴィオラらしい暖かみのある落ち着いた表現が魅力で、各国で演奏活動を行っている。
6歳でヴァイオリンを始める。桐朋学園大学で齋藤秀雄に室内楽を師事する。1964年、桐朋学園オーケストラのアメリカ・ツアーでコンサートマスターを務め、そのままアメリカに残り、タングルウッド音楽祭で小澤征爾指揮ボストン交響楽団 ボストン響のリヒャルト・シュトラウス「ドン・キホーテ (交響詩) ドン・キホーテ」を聴いたことをきっかけにヴィオラに転向する。1965年、イェール大学大学院に入学。1966年、ジュリアード音楽院に移り、ワルター・トランプラーにヴィオラを師事する。1967年にミュンヘン国際音楽コンクール、1968年にジュネーブ国際音楽コンクールで最高位を受賞。その後は、1973年から1978年までフェルメール弦楽四重奏団のメンバーとして活動しつつイリノイ音楽大学の助教授として教鞭をとる。その後、ヨーロッパに渡り、ソリストとして活動を行う。1992年からは、東京で教育的音楽祭「ヴィオラスペース」を指導するなど、後進の指導にも熱心に取り組んでいる。
今井登茂子(いまい ともこ 今井とも子とも)は、東京都出身のフリーアナウンサーである。
立教大学卒業。東京放送に入社し、初代お天気お姉さんとして視聴者から親しまれ、またバックグラウンド・ミュージック キューピー・バックグラウンド・ミュージック(ラジオ番組)のパーソナリティーとしても長年活躍された。フリー転向後は安藤優子(フリーキャスター)らを輩出するなど後進の育成にも力を入れており、1987年には会話を通した人間関係の重要性を問うコミュニケーションスクール・「とも子塾」を立ち上げた。
フリーアナウンサー いまいともこ
今井 俊満(いまい としみつ、1928年5月6日 - 2002年3月3日)は洋画家。昭和から平成にかけて活動した。
1928年、京都に生まれる。1952年、渡仏し、おもにパリで活躍、当時盛んだったアンフォルメルの絵画運動に参加。アンフォルメルを日本に紹介し、美術を通しての国際交流に尽くした功績は大きい。1979年、褒章 紺綬褒章受賞。1997年にはフランス芸術文化勲章(コマンドール)を受けるなど、内外で高く評価されている。1980年代からは作風を大きく変え、アンフォルメルと日本の伝統美の融合をめざした「花鳥風月」のシリーズを制作。最後まで革新的精神を持ち続けた画家だった。
「馬」(1955年)(大原美術館)
今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、昭和期の映画監督。
東京都渋谷に住職の子として生まれる。芝中学校・高等学校 旧制芝中学校時代よりマルクス主義と映画に傾倒し、1935年、東京帝国大学を中退し、「J・Oスタジオ(現・東宝)」に入社する。
1939年『沼津兵学校』で監督デビュー。第2次世界大戦中は、数々の戦意高揚映画を製作する。
戦後は、一転して『青い山脈』、『また逢う日まで』と民主主義の社会の到来を高らかに謳いあげる作品を次々と発表した。その後は、東宝争議の時期にフリーとなり、戦争や差別など社会的テーマを掘り下げる作品を発表し続けた。1963年『武士道残酷物語』で、ベルリン映画祭グランプリを受賞した。
今井 敬(いまい たかし、1929年(昭和4年)12月23日 - )は、日本の実業家。新日本製鐵相談役名誉会長、元社長。
経済団体連合会(経団連)第9代会長。神奈川県出身。東京都立日比谷高等学校 東京都立第一中学校を卒業後、東京大学法学部に進学。卒業後、富士製鉄に入社。
1998年、昭和生まれで初の経団連会長となる。
1952年:富士製鉄入社
1981年:新日鉄取締役
1993年:新日鉄社長
1998年:新日鉄会長
2003年:新日鉄相談役名誉会長
釜石製鉄所勤務を経て、ほぼ一貫して原料購買など業務畑を歩む。財務担当の常務時代に固定費削減を訴え、高炉13基のうち5基を休止するなど徹底的な合理化を推進。社長就任時には「創業的大リストラ」として3000億円のコスト削減を打ち出し、アジア通貨危機など鉄鋼需要の激減時にも経常黒字を維持する強固な経営体質を築いた。
今井 賢一(いまい けんいち、1931年8月7日 - ) は経営学者。スタンフォード大学名誉シニアフェロー、一橋大学名誉教授。一橋大学商学部長、スタンフォード大学教授、スタンフォード日本センター理事長、国際価格構造研究所所長、京都府中小企業総合センター(現京都府中小企業技術センター)所長、通産省産業構造審議会産業情報化小委員会委員長、物価安定政策会議委員、行政改革推進本部情報・通信作業部会専門委員、通産省産業構造審議会産業金融小委員会委員長等を歴任。
1953年 一橋大学経済学部
1956年 一橋大学大学院経済学研究科修了
1964年 - 1990年 一橋大学商学部助教授・教授・商学部長を歴任
今井 啓介(いまい けいすけ 1987年5月24日 - )は新潟県長岡市(旧:栃尾市)出身の広島東洋カープ所属の野球選手 プロ野球選手(投手)。
刈谷田中時代から頭角を現し「栃尾に剛腕投手が現れる」と話題になる。当時の中学校の監督の紹介で中越高等学校で当時監督を務めていた本田仁哉が直々にスカウトし、同校に推薦入学。ストレートは高校1年時から最速137kmをマークするなど、身体能力は非凡だった。
3年時には最速146kmにまで球速が上昇。スライダーを覚えたことで投球の幅が拡がり、2005年夏の県大会では計42回1/3を投げて50奪三振を記録。打者としても決勝で3ラン本塁打を放つなど、センスの良さを見せた。しかし決勝で破れ、結局3年間で甲子園に出場することはできなかった。
今井 清隆(いまい きよたか、1957年11月5日 - )は日本の舞台俳優。大柄な体を生かしたダイナミックな演技に定評がある。日本を代表する舞台俳優の一人。群馬県伊勢崎市出身。男性。
1976年 群馬県立伊勢崎工業高等学校を卒業する
1981年 東京松本英語専門学校を卒業。ミュージカル評論家の風早美紀氏から「ラ・マンチャの男」を奨められ感激し舞台を志す。
1982年 「サウンド・オブ・ミュージック」で初舞台
1991年 第17回菊田一夫演劇賞を受賞する
1995年 劇団四季に入団。浅利慶太の指導を受け、素質が開花する
1996年 読売演劇大賞優秀賞を受賞する
2006年東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」に出演している
今井 澄(いまい きよし、1939年11月17日-2002年9月1日)は、日本の学生運動家・医師・政治家(参議院議員)。
旧満州帝国のハルビンで生まれる。4歳のときに帰国して千葉県に住む。医師である父の転勤に伴い、小学3年から高校までは静岡県で過ごす。1958年東京大学に進学。60年安保闘争への関与から医学部進級試験に不合格・退学処分を受けるが翌年復学して進級。1962年の大学管理法反対闘争では自治会中央委員会議長として闘争を指揮したため再度の退学処分となる。このときともに退学処分となった1人に江田五月がいた。のちに2度目の復学。この時期は共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派 共産同ML派の大幹部であった。