上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - )は、元プロ野球選手(捕手)・プロ野球監督、野球解説者。徳島県海部郡 (徳島県) 海部郡宍喰町(現・海陽町)出身。右投げ右打ち。現役時代は広島東洋カープ 広島でプレーし、その後は広島、オリックス・バファローズ 阪急・オリックス、北海道日本ハムファイターズ 日本ハムのコーチ、監督を歴任した。阪急の黄金時代を築いた名監督。
徳島県立海南高等学校時代から捕手。弁護士になるつもりで関西大学法学部に入学したが、高校時代のキャリアを買われ野球部に入り、村山実(のち阪神タイガース)とのバッテリーで活躍した。
プロでの活動には自信を持っていなかったが、「マツダ 東洋工業からの出向社員として3~4年プレーし、その後は東洋工業で」との条件を出して熱心に口説いた広島東洋カープ 広島カープに応じ、1959年に入団。肩を壊した事もあり1961年に現役引退。東洋工業への復帰を願い出たが、松田恒次社長(松田耕平元オーナーの父)の要請もあって、1962年に専任コーチとしては、史上最年少25歳で広島のコーチに就任した。
植田辰哉(うえた たつや、1964年7月25日 - )は、元バレーボール選手一覧 日本男子バレーボール代表選手で、現日本男子代表監督。香川県出身
現役選手
バレーボール選手 うえたたつや
バレーボール監督 うえたたつや
植田 紳爾(うえだ しんじ、1933年1月1日 - )は、大阪府生まれの劇作家、演出家である。宝塚歌劇団専属。1996年~2004年には同歌劇団理事長をつとめた。現在は同歌劇団特別顧問。
幼くして父が病死、母とも生き別れ神戸のおじ夫婦に引き取られた。
中学1年生のとき、終戦。孤独に打ちひしがれていたとき同級生に誘われた宝塚歌劇に心を癒された。
その後演劇青年として学生時代をすごし、早稲田大学第一文学部演劇科を卒業。
1957年2月に演出助手として宝塚歌劇団に就職(劇団のかつてのスター・葦原邦子の紹介)。同年中に『舞い込んだ神様』で演出家デビューを果たした。初期には舞踊劇などの小作品を多く手がける。
植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。
日本国内はもとより世界的にも著名な写真家であり植田の演出写真は写真誕生の地であるフランスで日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されている。
生地・境港を拠点に70年近く写真活動を行った
鳥取県西伯郡境町(現境港市末広町)に生まれる。生家は境町で最も古い履物店であり祖父・文太郎以来「下駄屋」の商号で町民から親しまれていた。
小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。
上田 滋夢(うえだ しげむ、1965年11月11日-)は、京都府京都市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。
ジム・ウェーダー(Jim Weder)という英語風の名前も用いる。
日本では数少ないヨーロッパサッカー連盟 UEFA公認コーチのライセンスも持っている。
東京都立石神井高校 石神井高校
日本大学
イングランド2部、イングランド3部、スコットランド1部でプロ選手としてプレイ。1998年3月に引退
サッカースコットランド代表 スコットランド代表コーチ、U-16、U-18コーチ(スコットランド)1988.5-1989.6
アヤックス・アムステルダム アヤックス U-14、U-16コーチ(オランダ)1989.6-1990.5
スコットランド代表コーチ(スコットランド)1990.6-1990.11
上田 閑照(うえだ しずてる、1926年1月17日 - )は、日本の哲学者。平成15年日本学士院会員。東京都生まれ。専攻はドイツ哲学、宗教哲学。京都大学名誉教授。マイスター・エックハルトの研究、マルティン・ハイデッガーの研究、西田幾多郎、西谷啓治等の京都学派思想の研究で知られる。主要著作の多くは岩波書店より『上田閑照集』(全11巻)に収めれている。(妻はドイツ文学者の上田真而子。)
昭和24年京都大学文学部哲学科卒業、昭和38年哲学博士(マールブルグ大学)、昭和51年文学博士。
昭和29年高野山大学専任講師、昭和38年同助教授、昭和38年京都大学教養学部助教授、昭和42年同大教育学部助教授、昭和47年同教授、昭和52年同大文学部教授、平成元年同大名誉教授、平成3年から平成11年まで花園大学客員教授。
上田 耕一郎(うえだ こういちろう1927年3月9日~ )は、昭和、平成期の日本の政治家。日本共産党中央委員会名誉役員。長く参議院議員として活動するとともに、党宣伝局長、政策委員長、副委員長などを歴任した。日本共産党前議長の不破哲三(本名、上田建二郎)は実弟。不破とともに日本共産党を代表する論客で当時の議長宮本顕治を支えた。
1927年(昭和2年)3月9日教育評論家の上田庄三郎の長男として神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。1946年(昭和21年)旧制一高在学中に日本共産党に入党する。1951年(昭和26年)東京大学経済学部を卒業する。東大における共産党細胞 (政党) 細胞一期生であり、大学卒業後、中野新報の記者として地域のオルグ活動に取り組み、いわゆる「中野懇談会」を足場に活躍。1956年(昭和31年)『戦後革命論争史』で左派論壇にデビューし、構造改革派とも見なされてきたが、宮本顕治を中心にすすめられた綱領論争の中で第8回党大会で確定した反帝反独占の民主主義革命の現綱領の立場に立ち、かつての著書『戦後革命論争史』を絶版にし、いわゆる「自己批判」し、宮本路線への忠節を誓い、以後この路線の中心的担い手として活躍した。1973年(昭和48年)には「民主連合政府綱領」を提案し、独自路線を主張する日本共産党幹部の中では、比較的、他党との関係を模索する立場を垣間見せている。その後党中央機関紙しんぶん赤旗編集長、宣伝局長、政策委員長を経て、副委員長を歴任した。