上島 竜兵(うえしま りゅうへい、本名:上島 龍平、1961年(昭和36年)1月20日 - )とは、ダチョウ倶楽部に属するタレント。兵庫県神戸市垂水区出身。血液型はAB型。通称「竜ちゃん」または「竜さん」。妻はタレントの広川ひかる。
元々は役者志望で、青年座研究所、テアトル・エコー附属養成所に在籍。テアトル・エコー附属養成所の同期だった寺門ジモンに誘われて渡辺正行の元を訪ねたのがきっかけで、お笑いの道に入る。その際渡辺に紹介されたのが南部虎弾と肥後克広で、それがダチョウ倶楽部の原型になる。南部脱退後、テレビで活躍する機会が多くなり、ダチョウ倶楽部はその存在を世に知らしめることとなる。
上島重二(うえしま しげじ 1931年8月25日-)は、日本の実業家。第八代目三井物産社長。大阪府生まれ。
東京都立日比谷高等学校 都立日比谷高校を経て、昭和29年、京都大学経済学部卒業。同年、三井物産入社。鉄鉱石部長、鉄鋼・非鉄金属総括部長などを経て、昭和62年、取締役、平成5年、副社長、8年、社長就任。12年から会長、今井敬の指名で経団連副会長に就任するも、14年、国後島発電施設不正入札事件、ODAをめぐるモンゴル政府高官への贈収賄疑惑などが三井物産会社本体に浮上することにより、顧問に。
日本の実業家 うえしましけし
大阪府出身の人物 うえしましけし
1931年生 うえしましけし
上島鬼貫(うえしま おにつら、万治4年4月4日 (旧暦) 4月4日(1661年5月2日) - 元文3年8月2日 (旧暦) 8月2日(1738年9月15日))は江戸時代中期の俳諧師。上島の読みは出自からは「かみじま」であるが、通常「うえしま、うえじま」と呼称される。字は与惣兵衛、利左衛門。武士として出仕していた時代は藤原宗邇(ふじわら むねちか)と名乗った。晩年は平泉惣右衛門と名乗る。点也・仏兄(さとえ)・即翁・槿花翁(とうかおう)・自休庵・馬楽堂の別号がある。
摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)でも有数の酒造業者・上島宗次(屋号・油谷)の三男として生まれた。幼名は竹松。幼少の頃より俳諧に馴染んだ。13歳で松江重頼(維舟)に入門する。その後、西山宗因の談林派に入門する。
宇江佐 真理(うえざ まり、1949年10月20日 - )は日本の時代小説作家。本名、伊藤香。函館市生まれ。函館大谷女子短期大学卒業。
OLの後、主婦。1995年、『幻の声』でオール讀物新人賞を受賞しデビュー。同作品を含んだ連作短編集『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』は直木賞候補にもなり、注目される。
1995年 『幻の声』で第75回オール讀物新人賞
2000年 『深川恋物語』で第21回吉川英治文学新人賞
2001年 『余寒の雪』で第7回中山義秀文学賞
髪結い伊三次捕物余話シリーズ
泣きの銀次
室の梅
おちゃっぴい
斬られ権佐
神田堀八つ下がり
深尾くれない
日本の小説家 うえさ まり
1949年生 うえさ まり
植草 甚一(うえくさ じんいち、男性、1908年(明治41年)8月8日 - 1979年(昭和54年)12月2日)は、欧米文学、ジャズ、映画の評論家。
東京市日本橋区小網町の木綿問屋に生まれる。早稲田大学理工学部建築学科中退後、東宝に入社。戦後独立して映画評論を手がける傍らジャズや雑学への造詣を深める。1956年、初の単行本『外国の映画界』を上梓。この当時は、肥満体の、好戦的で気難しい、敵の多い男として知られていた。出版社と喧嘩が絶えず、『スイング・ジャーナル』誌の連載だけを主な仕事としていた。
1967年に晶文社から出した『ジャズの前衛と黒人たち』がきっかけとなって若い世代から支持を集め、植草ブームを招来。1970年に随筆 エッセイ『ぼくは散歩と雑学が好き』を刊行して若者にサブカルチャーを普及させた。1971年に胃の手術を受けてから体重が激減し、痩身となる。この時期からブームが本格的になり、一ヶ月に約300枚の原稿を執筆した。1973年には雑誌『ワンダーランド』を創刊。この『ワンダーランド』が後にJICC出版局(現・宝島社)に譲渡され、『宝島 (雑誌) 宝島』として発展していった。
植草 貞夫(うえくさ さだお、1932年9月29日 - )は、フリーアナウンサー、スポーツコメンテーター、植草貞夫事務所・アノンシスト企画代表。元朝日放送アナウンサー。東京都出身。
1955年に早稲田大学卒業後朝日放送入社。朝日放送時代、全国高等学校野球選手権大会の全国高校野球選手権大会中継 実況中継で数々の名言を残している。特に決勝戦は1972年(ミュンヘンオリンピックのジャパンコンソーシアム 民放共同制作体(現・ジャパンコンソーシアム)の実況で出張したため出演できず)を除けば、1988年まで何と17年連続で決勝実況を担当すると言う大阪・ABC朝日放送 高校野球中継史上に残る不滅の大記録を誕生させた。
植草 克秀(うえくさ かつひで、1966年7月24日 - O型)は、ジャニーズ事務所所属の三人組グループ・少年隊の1人。愛称はカッちゃん。
千葉市出身。明治大学付属中野中学校・高等学校 明治大学付属中野高校中退。少年隊の中では唯一の既婚者で、2児の父である。また、ダンスのフリを間違えることが多く、同メンバーである錦織一清によく突っ込まれることがある。
月曜ドラマランド 胸さわぎの放課後(1983年、フジテレビジョン フジテレビ系)
月曜ドラマランド 胸さわぎの放課後PARTⅡ(1983年、フジテレビ系)
月曜ドラマランド ただいま放課後スペシャル(1984年、フジテレビ系)
月曜ドラマランド ショーアップ★ハイスクール(1985年、フジテレビ系)
植草 一秀(うえくさ かずひで、1960年12月18日 -)は日本の経済学者、経済評論家である。学歴は江戸川区立松江第四中学校、都立両国高校、東京大学経済学部卒業。東京都江戸川区生まれ。学位は学士 経済学士(東京大学)。職歴には野村総合研究所主席エコノミスト、大蔵省財政金融研究所研究官、京都大学経済研究所助教授、早稲田大学大学院公共経営研究科教授など。近年は、名古屋商科大学客員教授を務めた。
東京大学経済学部卒業後、野村総合研究所に入社。
大蔵省財政金融研究所研究官、京都大学経済研究所助教授、スタンフォード大学フーバー研究所客員フェロー、野村総合研究所主席エコノミストなどを経て、2003年4月から早稲田大学の専門職大学院である公共経営研究科教授を務めた。他に情報プレゼンター とくダネ!(フジテレビジョン フジテレビ)やワールドビジネスサテライト(テレビ東京)など報道・情報番組でコメンテーターを務めた。
植木 通彦(うえき みちひこ、1968年4月26日 - 、福岡県北九州市出身)は、日本の競艇選手である。養成第59期、登録番号は3285、福岡県 福岡支部所属。166cm・52kg、O型。「艇王」「不死鳥」の異名で知られる。
1993年から2002年まで、10年連続で賞金王決定戦競走#賞金王決定戦 賞金王決定戦に出場。全SG競走を制覇する『グランドスラム』に最も近いといわれる。
輝かしい成績を残しているにもかかわらず、いまだに完全優勝の経験がないのは意外である。
福岡県立小倉商業高等学校時代は野球選手であったが、2年生時に中退して全国モーターボート競走会連合会本栖研修所(現在は、やまと競艇学校に移転)に入所。1986年 福岡競艇場でデビューした。
植木 等(うえき ひとし、1926年12月25日(戸籍上は1927年2月25日) - )は、日本の俳優、コメディアン、歌手。高度経済成長時代の日本を代表するコメディアンとして一世を風靡し、数々のヒットギャグ、ヒット曲を放った。
愛知県名古屋市出身。3歳の頃、父親が浄土真宗の寺の住職になったのを機に、三重県に移り住んだ。
長男は作曲家の比呂公一。
1944年 東洋大学予科に入学。
1947年 東洋大学予科卒業後、東洋大学文学部入学。
1950年 東洋大学文学部国漢科卒業(在学中に東洋大学は新制大学へ移行しているが植木自身は旧制大学のカリキュラムで卒業している)、ジャズに傾倒してギタリストを志す。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギターリストとして加入。
植木 繁晴(うえき しげはる、1954年4月13日 - )は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手、コーチ・監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー、フォワード
神奈川県立新城高等学校 新城高校、日本大学を経て、1977年に日本サッカーリーグ JSLの藤和不動産サッカー部 フジタ工業(現-湘南ベルマーレ)に入団、フジタ工業の3度のJSL優勝、2度の天皇杯全日本サッカー選手権大会 天皇杯制覇に貢献した。1988年限りで現役を引退。
引退後はフジタ工業のコーチ、日本プロサッカーリーグ Jリーグ入りを目指してフジタ工業から名称変更されたベルマーレ平塚のサテライト監督を歴任、1995年には監督代行を務めた。この年のアジアカップウィナーズカップで優勝し12月にアジア月間最優秀監督に選ばれた。1996年の途中には前任のトニーニョ・モウラの辞任を受けベルマーレ平塚監督に就任、1998年まで務めた。また当時若手であった中田英寿をトップ下と起用し、話題を集めた。