今橋 映子(1961年 - )は、東京生まれ。学習院大学仏文科卒業後、会社勤務を経て東京大学大学院比較文学比較文化専攻課程入学。博士論文「異都憧憬 日本人のパリ」でサントリー学芸賞、渋沢・クローデル特別賞受賞。筑波大学専任講師を経て東大助教授。日本美術史の今橋理子(学習院女子大学助教授)は妹。
『パリ・貧困と街路の詩学』(都市出版, 1998)
『異都憧憬日本人のパリ』(平凡社ライブラリー, 2001)
『〈パリ写真〉の世紀』(白水社, 2003、重森弘庵写真評論賞、島田謹二学芸賞受賞)
『展覧会カタログの愉しみ』 (東京大学出版会, 2003)
『都市と郊外』(NTT出版, 2004)
日本の学者 いまはしえいこ
今野 康晴(いまの やすはる, 1973年5月28日 - )は、岐阜県出身のゴルフ プロゴルファーである。日本大学卒業。日本ゴルフツアー機構 日本ゴルフツアー通算6勝。
12歳からゴルフを始める。日本大学在学中の1995年に、日本オープンゴルフ選手権競技 日本オープン選手権でベスト・アマチュアに入った。1996年にプロゴルファーテストに合格したが、最初はアジア・ツアーを転戦していた。その期間中、1997年に「マニラ・オープン」でプロ初優勝を挙げている。
1998年から日本ゴルフツアー機構 日本ゴルフツアーのシード権を獲得。1999年の「中日クラウンズ」で日本ツアー初優勝を挙げ、2000年には「全英への道 ミズノオープンゴルフトーナメント ミズノオープン」で優勝した。2002年に「NST新潟オープンゴルフトーナメント」と「アイフルカップ」で2週連続優勝を記録する。
今西 祐行(いまにし すけゆき、1923年10月28日 - 2004年12月21日)は児童文学作家。大阪府出身で奈良県生駒市育ち。早稲田大学文学部卒業。在学中に「びわの実学校」の同人となり創作活動に専念。
代表作に「肥後の石工」で日本児童文学者協会賞と国際アンデルセン賞国内賞など、「浦上の旅人たち」で野間児童文芸賞、「光と風と雲と光と」で小学館文学賞、「マタルペシュペ物語 第一部名栗川少年記」と「マタルペシュペ物語 第二部留辺蘂の春」で路傍の石文学賞をそれぞれ受賞。
その他には「ヒロシマの歌」、「一つの花」、「とうげのおおかみ」、「ねことオルガン」、「入れ歯をしたロバの話」、「遥かなりローマ」、など著書多数。主要著作は「今西祐行全集」(全15巻)として偕成社より刊行された。
今西錦司 (いまにし きんじ、男性、1902年1月6日 - 1992年6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学 人類学者である。日本の霊長類研究の創始者として知られる。京都生まれ。京都帝国大学(現京都大学)農学部卒業
1979年文化勲章受賞。
初期の研究であるカゲロウの生態に関する研究を通じ「棲み分け理論」を提唱した。「棲み分け」は種 (生物) 種同士の社会的関係を表す概念である。生物は互いに競争するのではなく、棲む場所を分け合い、それぞれの環境に適合するように進化していくというものである。
例えばカゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。
今成 亮太(いまなり りょうた、1987年10月6日- )は、プロ野球・北海道日本ハムファイターズに所属する捕手である。背番号は62。2006年に浦和学院高等学校 浦和学院高校を卒業した。
小学校入学前から野球を始めていたが、中学時代はサッカー部に所属し、県大会に出場したこともある。その後野球の名門・浦和学院高校に進学。1年時からベンチ入りし、秋に正捕手となった。この頃は2学年先輩の須永英輝の専属捕手も務めていた。2年夏・3年春には主将としてチームを率い、高校野球 甲子園に導いた。
捕手としてはやや細身な印象を受けるが、打撃センス・スローイングの速さなどは高卒捕手の中でもトップクラスと高く評価されている。
今中麻貴(いまなか まき 1965年6月13日 - )は、北海道小樽市出身でクレイジーフォー所属のフリーアナウンサー。身長157cm、血液型A型。藤女子短期大学国語文学科卒。
札幌テレビ放送(STV)にアナウンサーとして1986年に入社、1996年退社。
ズームイン!!サタデーにリポーターとして出演中。
ズームイン!!SUPER(STV所属時代はズームイン!!朝!に出演していた)
朝6生ワイド(STV時代)
ジパング朝6リポーター
見ればなっトク!(TBSテレビ)レポーター
ガメラ2 レギオン襲来(1996年、大映)札幌地区リポーター
フリーアナウンサー いまなかまき 1965年生 いまなか まき
今中大介(いまなか だいすけ、1963年7月24日 - )は元自転車選手、広島市出身。広島城北高等学校卒、大分大学大学院工学研究科卒業。2005年現在は株式会社インターマックス代表。
シマノの社員としてツール・ド・北海道総合優勝(1990年・1991年・1993年)を始めとする国内の自転車レースタイトルを次々と獲得したあと、1994年に渡欧。イタリアのプロチーム「Team Polti」に所属し、1995年にジロ・デ・イタリア、1996年にツール・ド・フランスに参加した。
ツール・ド・フランス参加については日本人で唯一近代ツールを走った、という快挙を成し遂げたことになる(ツールへの日本人の参加自体は1920年代にも例があるが、当時はルール等が現在のように整備されておらず、レース形態もほとんど別物だった)。1997年のシーズン終了後現役を引退し日本に帰国する。
今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日- )は、大阪府門真市出身。平成期(1990年代~2000年代前半)のプロ野球選手。ポジションは投手。左投げ左打ち。現役時代は中日ドラゴンズで活躍した。身長・体重/182cm・73kg。1990年代の中日ドラゴンズのエースとして、ファンの記憶に現在でも強い印象を残している稀代の名投手である。
大阪桐蔭高等学校(入学時は大阪産業大学附属中学校・高等学校 大阪産業大学高等学校大東校舎、3年の時に改称)では甲子園出場経験は無いが、1988年にドラフト会議 ドラフト1位で中日に入団。
高卒ルーキーながら1年目から一軍で活躍し、2年目の1990年には早くも10勝をマーク。1991年には佐々岡真司(広島東洋カープ)との防御率のタイトル争いのため、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発するものの、タイトルは逃す。1993年には開幕投手を務め、17勝7敗、防御率2.20で最多勝、最多奪三振、沢村賞(審査項目をすべて満たす。ちなみに、これ以降項目をすべて満たした投手はまだ出ていない)、ベストナイン、ゴールデングラブ賞のタイトルを独占(最多勝は同僚山本昌、横浜ベイスターズの野村弘樹と3人の左腕で分け合う)。
今谷 明(いまたに あきら、 1942年 - )は、日本の歴史学者。国際日本文化研究センター教授。専門は日本中世史。京都市出身。
1967年 京都大学経済学部経済学科卒
1973年 京都大学大学院文学研究科修士課程修了
1976年 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学
1967年 大畿財務局事務官
1969年 経済企画庁国民生活局事務官
1977年 京都大学文学部助手
1980年 文化庁文化財保護部文化財調査官
1981年 国立歴史民俗博物館歴史研究部助教授
1986年 横浜市立大学文理学部助教授
1993年 横浜市立大学文理学部教授
1995年 横浜市立大学国際文化学部教授
2004年 国際日本文化研究センター教授
『室町の王権―足利義満の王権簒奪計画』 (中央公論社、1990年)
今竹 七郎(いまたけ しちろう、1905年10月5日 - 2000年2月26日)は日本のモダンデザインの父と呼ばれるデザイナー(グラフィックデザイナー)、画家。
兵庫県神戸市に生まれる。戦前には大丸や高島屋に勤務するも、戦後は独立。1929年には中山岩太らと神戸商業美術研究会を発足させ、1937年には「プレスアルト」の発起人となる。特に、関西のデザイン界を、戦前戦後を通じて牽引する役割を担う。
輪ゴム(共和ゴムの「オーバンド」)のパッケージ、メンタームの少年とメンソレータムの看護婦の少女のデザイン、福岡ソフトバンクホークス 南海ホークスのシンボルマーク、関西電力の社章等身近なものでも有名なものがある。2000年2月26日死去。享年94。
今田高俊(いまだたかとし、1948年4月 - )は、日本の社会学者。兵庫県神戸市生まれ。東京工業大学に文系の大学院である社会理工学研究科を作った。
ニクラス・ルーマンのオートポイエシスを「自己組織性」の概念で彫琢する。
1967年 私立甲陽学院高等学校卒業
1972年 東京大学文学部社会学科卒業
1975年11月 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程中退
1975年11月 東京大学文学部社会学科助手
1979年 東京工業大学助教授
1988年 東京工業大学工学部教授
『自己組織性――社会理論の復活』(創文社、1986年)
『モダンの脱構築――産業社会のゆくえ』(中央公論社[中公新書]、1987年)
『社会階層と政治』(東京大学出版会、1989年)
今田 耕司(いまだ こうじ 1966年3月13日-)は、大阪府大阪市中央区_(大阪市) 中央区谷町出身のお笑いタレント。吉本興業所属。愛称は「今ちゃん」。清風高等学校定時制卒。先輩の浜田雅功の母校日生学園で学んだこともあるが、全寮制の禁欲的な生活に耐えきれず、脱出に成功し退学した。後に退学した一番の理由は、寮内で男子生徒同士の性交を目撃してしまい、そのうち性欲の抑えが効かない先輩に、貞操を奪われるかもしれないと恐怖するようになったからと告白した。血液型A型(血液検査で判明するまで本人はO型だと思っていた)。
絡むタレントを選ばないそのトークレベルの高さには定評がある。何時でも何処でも一定以上の仕事が出来る、お笑い界の名バイプレイヤー(脇役)。