市川 海老蔵(いちかわ えびぞう)は、歌舞伎役者。屋号は成田屋。 当代は11代目。定紋は三升。市川家にとって市川團十郎に次ぐ重要な名跡であり、海老蔵は團十郎襲名の前に名乗る名として位置付けられている。もうひとつの重要な名・市川新之助とあわせて、新之助・海老蔵・團十郎の順に襲名することも多い。
市川團十郎 (初代) 市川海老蔵 (初代) - のちの初代市川團十郎。
市川團十郎 (2代目) 市川海老蔵 (2代目) - 2代目市川團十郎の後名。
市川團十郎 (4代目) 市川海老蔵 (3代目) - 4代目市川團十郎の後名。
市川團十郎 (6代目) 市川海老蔵 (4代目) - 3代目の孫。のちの6代目市川團十郎。
市川團十郎 (7代目) 市川海老蔵 (5代目) - 7代目市川團十郎の前名および後名。前名時代は「ゑび蔵」と名乗った。
市川右太衛門(いちかわうたえもん、1907年2月25日 - 1999年9月16日)は、香川県丸亀市出身の日本の俳優。北大路欣也の実父でもある。生涯の当たり役・「旗本退屈男」こと早乙女主水之介(さおとめ・もんどのすけ)に代表される、明るく豪快な演技で親しまれた、戦前・戦後を通じての時代劇映画スター。立ち姿の美しさ、舞踊の素養(藤間寛蔵の舞踊名を持つ)を生かした立ち回りの見事さで知られ、映画出演総数は320本にのぼる。
本名は浅井善之助。鉄工所経営者の息子として生まれる。両親が芸事好きなこともあって、5歳で日本舞踊を習い始める。踊りの師匠のつてで6歳の時「菅原伝授手習鑑」に菅秀才の役で出演し、初舞台。小学校卒業後、歌舞伎俳優・二代目市川右團次に入門、歌舞伎の世界で役者修行を開始。市川右一の芸名をもらう。
市川 勇(いちかわ いさむ、1952年2月8日-)は東京都出身の俳優。身長175cm、体重57kg。血液型A型。劇団東京ヴォードヴィルショー所属。
1975年に劇団東京ヴォードヴィルショー入団。1980年にデビュー。デビュー作は「間違いだらけの女選び」。ドラマ「ショムニ」の海外事業部の部長役で有名。趣味に将棋を挙げていて、好きなテレビ番組も「NHK将棋トーナメント」と挙げるほど。
バッテンロボ丸(1982年、1983年)屯田博士役
もりもりぼっくん(1986年)知蘭博士役
魔法少女ちゅうかなぱいぱい!(1989年)警官役
美少女仮面ポワトリン(1990年)バリカン婆役
想い出にかわるまで(1990年)
七星闘神ガイファード(1996年)クザン博士役
一枝 修平(いちえだ しゅうへい、1940年7月24日 - )は大阪府大阪市天王寺区出身のプロ野球選手・コーチで、現在は野球解説者。
上宮中学→上宮高等学校 上宮高校では投手として活躍したが、明治大学入学後は二塁手へ転向、2年生からレギュラー入りし東京六大学野球連盟 東京六大学野球の秋季リーグベストナインを2回(1960年・1962年)獲得。社会人野球の河合楽器へ入り遊撃手へ転向、1963年の都市対抗野球では準々決勝で5打数4安打の大活躍で、チームのベスト4入りに貢献した。1964年に中日ドラゴンズに入団、1966年にはベストナインを獲得し、1968年にはオールスターゲームへ出場。1972年に飯田幸夫とのトレード 交換トレードで大阪近鉄バファローズ 近鉄バファローズへ移籍し、一年目はレギュラーとして活躍。1973年に近鉄を自由契約後は、この年現役引退した安藤統男の後釜と指導者としての技量も評価した阪神タイガースへ移籍、1974年に現役引退。
板谷 由夏(いたや ゆか、1975年6月22日‐)は、日本の俳優 女優。アミューズ所属。福岡県出身。九州国際大学付属高等学校女子部卒業。血液型はO型。
1994年からファッション雑誌「PeeWee」の専属モデルとして活躍する。当初は地元である福岡在住のまま仕事をしていて、地元のテレビやラジオにレギュラー出演し、又、博多華丸・大吉 博多華丸(当時は鶴屋華丸)やプー&ムー おたこぷー(当時はおタコ・プー)と共にSOUTH END×YUKAとしてシングル「SO・TA・I」もリリースした。
NHK教育テレビジョン NHK教育テレビで「イタリア語会話」に2年間アシスタントとして出演する。この時の姿が映画監督の大谷健太郎の目に留まり、映画「avec monmari」に初出演。キャリアウーマンで自分が稼いだお金で夫を養い、気が強くて意地っ張りな主人公を好演した。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日(明治5年3月3日_(旧暦) 3月3日) - 1963年(昭和38年)10月10日)は、明治~昭和期の日本の陶芸家。日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、瀬戸、美濃、伊賀などの茶器、朝鮮半島の影響を受けて始まった伊万里、鍋島の磁器のように、芸術品として高い評価を得ている作品さえも、ほとんどが無名の陶工の手になるものである。近世には京焼の野々村仁清のように個人名の残る陶工もいるが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。板谷波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本におけるもっとも初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
伊丹 万作(いたみ まんさく、本名・池内義豊、1900年1月2日 - 1946年9月21日)は、昭和、第二次世界大戦前に活躍した映画監督。日本映画の基礎を作った名監督の一人である。
愛媛県松山市湊町に生まれる。1912年、「松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)」に入学する。中村草田男、伊藤大輔 (映画監督) 伊藤大輔などと同人雑誌を作り、文才を競った。卒業後、叔父を頼って上京する。程なく、伊藤と同居するようになり、少年雑誌の挿絵などを書いていた。一時期、病気の父を見舞うため郷里へ帰ったが、映画監督をしていた伊藤のもとで、シナリオを書くようになった。
1927年、谷崎十郎プロに俳優として入社する。1928年、片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼脚本家として参加する。同年『仇討流転』で監督デビュー。それ以降、『国士無双』、『赤西蠣太』など独特の風刺の効いた作品を発表し、映画界随一の「知性派」として大監督のひとりに列せられた。
伊丹 敬之(いたみ ひろゆき、1945年 - )は愛知県豊橋市生まれの経営学者。2005年紫綬褒章。2003年一橋大における21世紀COEプログラム「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」拠点リーダーに就任。2002年から組織学会会長。
中部電力アドバイザリーボード委員、中小企業政策審議会委員、大学設置審議会委員、経済審議会委員、繊維産業審議会委員、産業構造審議会臨時委員、財団法人松下国際財団評議員、社団法人地域経済総合研究所評議員、特定非営利活動法人国際連合世界食糧計画WFP協会顧問等を歴任。
1967年 一橋大学商学部卒業
1969年 一橋大学商学研究科修士課程修了
1972年 カーネギーメロン大学経営大学院博士課程卒業、Ph.D.取得
伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、本名は池内 岳彦(いけうち たけひこ)、戸籍名は池内 義弘(いけうち よしひろ)、1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、映画監督、俳優、エッセイスト。作家の大江健三郎は義弟。
映画監督の伊丹万作を父親として京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。第二次世界大戦末期、湯川秀樹によって当時構想された、科学者養成のための英才集団特別科学学級で教育を受けた。中学生の時に父親は死去する。京都府立山城高等学校に入学するが、愛媛県松山市へ移り、愛媛県立松山東高等学校に転入。ここで大江と知り合う。その後、二度落第して愛媛県立松山南高等学校に転入。同校を卒業したが大学を受験して失敗したため、上京し新東宝編集部を経て商業デザイナーとなる。