最近の有名人・芸能人 姓名判断 2110

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最近の有名人・芸能人 姓名判断 2110

犬養道子

犬養 道子(いぬかい みちこ、1921年4月20日 - )は、日本の評論家。首相・犬養毅の孫。
現在の東京都新宿区四谷に犬養健・仲子夫妻の長女として生まれた。父・健は犬養毅の嗣子で親子2代の政治家であり、母方の曾祖父が長与専斎と後藤象二郎である。母方の祖父は男爵長与称吉。また異母妹に安藤和津、従姉の娘に緒方貞子がいる。
女子学習院、津田英学塾に学んだ後留学。1970年代以降、ヨーロッパに在住し、1979年から世界の飢餓、難民問題に深くかかわっていることでも知られている。
欧州滞在中は、ジュネーブ空港に近いフランスの街フェルネ・ヴォルテールに住み、ライフワークの聖書の研究のかたわら、難民支援活動を積極的に展開した。1990年代後半、日本国内での活動強化のため、帰国した。麗澤大学など多数の大学で教壇にたち、講演も多くこなしている。

犬養毅

犬養 毅(いぬかい つよし、安政2年4月20日 (旧暦) 4月20日(1855年6月4日) - 昭和7年(1932年)5月15日)は、日本の政治家。通称は仙次郎。号は木堂。勲一等旭日桐花大綬章。
備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる。(後に、犬養と改姓。)一時二松学舎にも通い、慶應義塾大学 慶應義塾退学。退学の理由は、一説によると首席での卒業が叶わなかったからだと言われている。1882年、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍。1890年の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。1898年の隈板内閣では共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後を受けて文部大臣となった。1913年の第1次憲政擁護運動の際は第3次桂太郎内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに憲政の神様と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は桂の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は一貫して辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校の名誉校長を務めるなどしていた。

犬養健

犬養 健(いぬかい たける、1896年7月28日 - 1960年8月28日)は、日本の政治家、小説家。勲一等。東京帝国大学哲学科中退後白樺派の作家として活躍した後政界に入った。
造船疑獄で佐藤栄作や池田勇人といった当時の大物政治家の汚職で逮捕状が出されたにも拘わらず、目前にしながら、検察指揮権を発動し逮捕をやめさせた事件があまりにも有名になったため、評価はきわめて悪い。また法務大臣就任も吉田茂の名門好きによって行われたものであるという説がつよい。
作家としていくつかの佳品もあるが、造船疑獄のために日本ペン・クラブ加入を断られたほどであった。現在ではその文名を知る人は多くないが、長与善郎や武者小路実篤の影響を受けて小説を書き、1923年に処女作品集『一つの時代』を刊行している。精緻な心理描写と繊細な感じかたが評価され、のちに政治に転身してからも文士時代の知友との交際があった。

乾貴美子

乾 貴美子(いぬい きみこ、1975年6月13日 - )は日本の女性タレント。東京都出身、立教大学文学部心理学科卒。オフィス・トゥー・ワン所属。
1994年に、『週刊朝日』の公募モデルのひとりに選ばれる。
1996年4月から1999年10月まで、テレビ朝日 EX系『ニュースステーション』の天気コーナーを担当し、人気を博す。以後、テレビ・ラジオ・雑誌など多才に活動している。
2003年にレコード会社社長と結婚、2005年9月に妊娠6ヶ月である事を公表した。2006年1月26日午前5時45分、都内の病院で女児(2850グラム)を出産した。
2006年7月レーシック 近視矯正の手術を受けたと高田文夫のラジオビバリー昼ズで公表

稲山嘉寛

稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、明治37年(1904年)1月2日 窶錀 昭和62年(1987年)10月9日)は、昭和期の経営者・財界人。第5代経済団体連合会(経団連)会長(1980年~1986年)。
東京都中央区 (東京都) 中央区銀座に、「稲山銀行」頭取・稲山伝太郎の二男として生まれる。入学試験・入社試験には苦労し続け、中学受験では東京都立日比谷高等学校 東京府立一中、東京都立戸山高等学校 府立四中、開成中学校・高等学校 開成中、麻布中学校・高等学校 麻布中に落ち、神田の錦城高等学校 錦城中に入学する。高校入試も水戸高等学校に落ち、翌年仙台の東北大学 第二高等学校に入る。大学は当時新設学科のため無試験だった東京帝国大学経済学部商業学科に入学することができたが、就職活動でまた一苦労する。大蔵省、鉄道省、日本銀行、三菱東京UFJ銀行 三菱銀行、三井住友銀行 三井銀行その他に立て続けに落ち続け、ようやく商工省より高等文官試験パスを条件に内定を獲得、見事高文に合格し、1927年官営八幡製鐵所に入所する。

稲盛和夫

稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年1月30日 - )は、経営者。京セラ・第二電電(現KDDI)創業者。現在は京セラ名誉会長。
鹿児島県生れ。鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校を経て、1955年鹿児島大学工学部を卒業。
卒業後、碍子メーカーの松風(しょうふう)工業を経て、1959年、社員8人で京都セラミックス(現在の京セラ)を設立し、10年後、株式上場。ファインセラミックスの技術で世界的な企業に成長させた。1984年には第二電電(DDI、現在のKDDI)を設立した。元京都商工会議所副会頭及び会頭。第三次行革審委員。
1984年、財団法人稲盛財団を設立し、京都賞を創設した。また、若手経営者向けの経営塾「盛和塾」を非営利にて主宰し、若手経営者の育成も行っている。京都パープルサンガの実質的なオーナーでもある。

稲本潤一

名前=稲本潤一
本名=
愛称=イナ
カタカナ表記=イナモトジュンイチ
アルファベット表記=INAMOTO Junichi
原語名=
原語表記=
誕生日=1979年9月18日
出身地=鹿児島県姶良郡湧水町
身長=181cm
体重=76Kg
血液型=O型
所属チーム名=ガラタサライ
ポジション=ミッドフィールダー MF
背番号=23

稲村成浩

稲村 成浩(いなむら なりひろ、1971年12月18日 - )は、群馬県前橋市出身の競輪選手、自転車競技選手。日本競輪学校第69期卒業。日本競輪選手会群馬支部所属。師匠は実父の稲村雅士で、同じく選手の稲村好将は実弟。初出走は1992年4月11日の前橋競輪場で初勝利も同日。血液型はA型。
偉大な競輪選手である稲村雅士を父に持っていたため、早くから自転車に親しんでおり、群馬県立前橋工業高等学校の自転車部に入部してからは高校総体などで数度優勝する。その実績から高校在学中の1990年にグリーンドーム前橋で開催された世界選手権自転車競技大会に出場し、タンデムスプリントで銀メダルを獲得して満員の場内を沸かせた。競輪選手としてデビューしてからも自転車競技に参加し続け、オリンピックを含めた各種の国際大会に出場している。

稲嶺誉

稲嶺 誉(いなみね ほまれ、1980年10月21日生まれ)は 沖縄県糸満市出身のプロ野球選手。投打は右投げ左打ち。守備位置は内野手(主に二塁手、遊撃手、三塁手)。横浜ベイスターズの稲嶺茂夫投手はいとこ 従兄。
沖縄県立沖縄水産高等学校 沖縄水産高では3年生の時に選抜高等学校野球大会、全国高等学校野球選手権大会に連続して出場した。高校卒業後は北海道網走市に所在する東京農業大学生物産業学部 東京農大生産学部に進み、大学では1年生からレギュラーとして活躍し全日本大学選手権に4度出場している。道六大学リーグでは首位打者3回、ベストナインにも6回選ばれている。2002年ドラフト会議 ドラフト8巡目で福岡ダイエーホークス(後に福岡ソフトバンクホークス)から指名され、翌2003年に入団。ルーキーながら同年の2003年の日本シリーズ 日本シリーズにも出場した。元々は左打ちであったが、2005年から両打ちに挑戦し1軍でも結果を残している。しかし2006年は初心に戻り、左打ちに専念することに。練習を見ていたファンが「黒が基調のビジターのユニフォームを着ているのかと思った」と言われるほどユニフォームを汚してプレーする練習熱心さがある。

稲嶺茂夫

稲嶺 茂夫(いなみね しげお 1978年8月13日 - )はプロ野球・横浜ベイスターズに所属する投手、背番号は38。
チームに慢性的に不足する中継ぎ左腕として期待される、毎年二軍では良い成績を残しており、2003年は通年で24試合に登板し投球回数30回2/3で0.00と驚異的な防御率を記録した。
福岡ソフトバンクホークスの稲嶺誉内野手はいとこ 従弟。
1995年 - 選抜高等学校野球大会 春の甲子園に出場、2回戦敗退。
1998年 - 春に5勝をあげ東海大の首都大学野球連盟 リーグ優勝に貢献 全日本大学野球選手権大会で準優勝。
2001年 - ドラフト会議 ドラフト7位で横浜に入団、10月11日の対中日ドラゴンズ 中日戦で初登板。

稲嶺恵一

稲嶺 惠一(いなみね けいいち(1933年10月14日 - )は、日本の政治家で、1998年12月より沖縄県知事。沖縄県本部町出身。父は、琉球石油(現・りゅうせき)創業者で元参議院議員の故・稲嶺一郎。
昭和8年(1933年)10月14日生まれ。中国遼寧省(旧・満州大連)出身。1957年慶応義塾大学経済学部卒。
昭和32年いすゞ自動車に入社。昭和48年(1973年)琉球石油(現・りゅうせき)に転じ、昭和49年(1974年)取締役を経て、昭和61年(1986年)社長、平成5年会長、及びりゅうせきネットワーク会議議長。同年、南西航空(現・日本トランスオーシャン航空)会長を兼任。
昭和61年(1989年)沖縄経済同友会特別幹事、沖縄県冷蔵倉庫協会会長、沖縄自由貿易地域事業者協会副会長、地域産業技術振興協会理事長、平成3年(1991年)沖縄県経営者協会会長、平成6年(1994年)沖縄県青年海外協力隊を支援する会会長、平成8年(1996年)沖縄懇話会代表幹事などを歴任。

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