木の実 ナナ(きのみ なな、 本名:池田 鞠子(いけだ まりこ)、1946年7月11日 - )は東京都出身の有名人一覧 東京都墨田区出身の女優、歌手。
音楽番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」(1962年 日本テレビ系)でデビュー。当時、この番組のイメージにより「ホイホイ娘」と呼ばれていた。
デビュー当時は、ザ・ドリフターズの専属シンガーでもあった。(この当時のドリフは、コント集団ではなくバンドであった。)
1977年頃、西田敏行や武田鉄矢と共に、バラエティー番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」に出演し、コントを披露するなどの一面もあった。
現在は舞台を中心にドラマ、CMなどで活躍。卓越した身体能力と歌声でミュージカル女優として名高い。
木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1日 - 1925年(大正14年)2月15日)は日本の歌人。本名は利玄(としはる)。
明治19年(1886年)岡山県賀陽郡足守村(現・岡山市足守)にて足守藩最後の藩 藩主・木下利恭の弟・利永の二男として生まれる。
明治24年(1891年)5歳の時、利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となり家督を継ぐため上京。
明治25年(1892年)学習院初等科に入学。武者小路実篤と同級になる。
明治39年(1906年)東京帝国大学文科に入学。東大在学中は佐佐木信綱に師事し短歌を学び、竹柏会門下の逸材と呼ばれる。
明治43年(1910年)には実篤や志賀直哉らと共に文芸雑誌「白樺 (雑誌) 白樺」を創刊し、散文や短歌を発表。白樺派の代表的歌人の一人となる。
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年8月1日 - 1945年10月15日)は、日本の詩人、劇作家、小説家、美術史家、医学研究者。また、キリシタン史の研究でも知られた。愛知医科大学教授を務める。医学博士。本名は、太田正雄。ほかに、竹下数太郎、きしのかしや、堀花村、北村清六、地下一尺生、桐下亭、葱南、といった筆名や号を用いる。
静岡県賀茂郡湯川村(現在の伊東市)に生まれる。生家は、屋号を「米惣」という商家。
独逸協会中学(現在の獨協中学校・高等学校)、第一高等学校 (旧制) 第一高等学校を経て東京大学 東京帝国大学医科大学に入学。大学では皮膚科を専攻。
大学時代に長田秀雄の紹介で東京新詩社に参加し、同社の機関誌である『明星』に小品文「蒸汽のにほひ」をはじめ詩作品を寄稿する。また、与謝野鉄幹・与謝野晶子、北原白秋、石川啄木らと交流を深めた。
木下 明水(きのした めいすい、1971年9月26日-)は、俳優、タレントで、かつて存在したコントグループ「ジョビジョバ」の元メンバーであり、現在は住職見習いでもある。熊本県出身、 天秤座、 血液型はO型。かつてホリプロに所属していたが現在はフリー。
父は、浄土真宗本願寺派の宗会議長・木下慶心氏。
間違えられやすいが、"名水"ではない。明水は本名であり、「明鏡止水」という言葉に由来する(明鏡止水を縮めて明水)。
東京大学を何度も受けたものの、失敗。明治大学に進学した。
ジョビジョバ時代は、全身黒タイツでさまざまな身体を張った芸に挑戦するなどしていた。
2000年4月のTBSオールスター感謝祭内のコーナー、赤坂5丁目ミニマラソンで見事優勝している。但し途中でコースを間違え、司会の島田紳助から「本当なら失格よ」と言われての優勝であった。
木下牧子 (きのした まきこ、1956年 - ) は日本の作曲家。主に合唱曲・歌曲・管弦楽曲等を作曲。
東京生まれ。東京都立芸術高等学校(ピアノ専攻)を卒業、1浪後東京芸術大学作曲科に入学し、同大学卒業、同大学院修了(管弦楽曲「壺天」が作曲科首席卒業作品として演奏されている)。
初期の合唱曲は比較的難度の高いものがみられたが、近年の合唱作品には中高生向けの平易なものも多く、最も人気のある作曲家の一人である。
混声合唱組曲「方舟」
混声合唱組曲「ティオの夜の旅」
混声合唱組曲「光る刻」
混声合唱曲集「地平線のかなたへ」(「春に」を含む)
混声合唱曲集「光と風をつれて」(「はじまり」を含む)
木下 ほうか(きのした・ほうか、1964年1月24日-)は、大阪府出身の俳優。マツ・カンパニー所属。
1981年、映画『ガキ帝国』のオーディションの新聞広告を見て、そのオーディションに応募したのをきっかけに、同作品で俳優デビュー。その後吉本興業に入り、吉本新喜劇に入団する。しかし、新喜劇の舞台では目立つ存在になれず、また1980年代の新喜劇マンネリ時代と重なり3年で退団。1989年、井筒和幸監督を頼って上京。下積み生活を経て、現在、日本映画の人気バイプレイヤーの一人として活躍している。
趣味はバイク、特技はキックボクシング、空手(正道会館空手初段)。
ガキ帝国(1981年)
木下 典明(きのした のりあき、1982年12月29日 - )は、アメリカンフットボールプレイヤー。大阪府豊中市出身。立命館大学経営学部卒業。愛称は「ノリ」。40ヤード走4秒4の俊足を持つ。兄はアサヒ飲料チャレンジャーズ木下善仁。
小学1年からチェスナットリーグのチームの一つである池田ワイルドのボアーズ(ワイルドボアーズの活動休止のため、後にファイティングビー)でプレーし、大阪産業大学付属高等学校入学後、アメリカンフットボールを始める。当初のポジションはWR、立命館大学のエースQBとして有名な1年先輩の高田鉄男の後を引き継ぎ、高校3年からQBとDBとしても活躍する。2年次と3年次に高校日本一に輝き、3年次のクリスマスボウルには最優秀バックス賞である三隅賞を獲得する。
木下直之(きのした なおゆき;1954年 - )は、東京大学教授(正式には、大学院人文社会系研究科・文学部・文化資源学研究専攻)。専門は、博物館学、日本美術史、写真史関連。
静岡県浜松市出身。東京藝術大学大学院で芸術学を専攻する(中退)。助教授になる前は、兵庫県立近代美術館の学芸員も務めていた。
著書『美術という見世物――油絵茶屋の時代』(平凡社)は、サントリー文化財団のサントリー学芸賞(1993年度 芸術・文学部門)を受賞している(当時は、兵庫県立近代美術館の学芸員であった)。
写真に関しても造詣が深い。
日本の写真家・全40巻・別巻1/飯沢耕太郎・長野重一との共編/岩波書店
木下 尚江(きのした なおえ、明治2年9月8日 (旧暦) 9月8日(1869年10月12日)- 昭和12年(1937年)11月5日)は、日本の社会主義運動家、作家。男性。尚江は本名。長野県松本市出身。
長野県松本深志高等学校 長野県中学校松本支校を経て、明治21年、早稲田大学 東京専門学校卒。松本に戻り、しばらくは地元で新聞記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。25歳でキリスト教の洗礼を受ける。明治32年に毎日新聞に入り、廃娼運動、足尾鉱毒問題、普選運動などで論陣を張る。
明治34年には幸徳秋水、片山潜、堺利彦らと社会民主党 (日本) 社会民主党を結成したが、2日後に禁止となる。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。
木下 富雄(きのした とみお、1951年5月7日 - )は、埼玉県北葛飾郡杉戸町出身。昭和後期から末期(1970年代後半~1980年代)のプロ野球選手(内野手)。
埼玉県立春日部高等学校 春日部高から駒澤大学を経て、1973年ドラフト会議 ドラフト1位で広島に入団。色々な技の出来る2番打者や、ゲーム終盤の守備固めとして黄金時代を支えた。1987年シーズン終了後に現役を引退し、一軍守備コーチ、中国放送解説者を経て、2000年にチーフコーチ(ヘッド格)として広島に復帰。山本浩二監督の就任に伴い、2001年から2005年まで広島の二軍監督を務める。山本浩と同様に過去6回のリーグ優勝時全てにユニフォームを着ている数少ない人物である。現役時代から蓄えている口ひげがトレードマークで、パンチョの愛称で親しまれている。
木下 勝俊(きのした かつとし、1569年(永禄12年) - 1649年7月24日(慶安2年6月15日 (旧暦) 6月15日))は、安土桃山時代の武将。江戸時代初期の大名。足守藩2代藩主。和歌 歌人。高台院 北政所の兄・木下家定の嫡男。弟に木下利房、木下延俊、小早川秀秋。号は長嘯子(ちょうしょうし)。妻は森可成の娘うめ(宝泉院)。娘は徳川家康の五男武田信吉 信吉の妻。キリシタンであったようで、洗礼 洗礼名「ペテロ」が伝わる。
父・家定と共に豊臣秀吉に仕え、数少ない縁者として重用された。播磨国龍野城主にまで出世し、小田原征伐や朝鮮出兵に参陣。その戦功によって若狭国小浜市 小浜に8万石の所領を与えられた。