折原 みと(おりはら みと、女性、1964年1月27日 - )は、少女漫画家・恋愛小説家。茨城県出身。
漫画家としては1985年、恋愛小説家としては1987年の『ときめき時代』シリーズでデビュー。小説家としての代表作は、『時の輝き』で1995年には、高橋由美子主演で映画化もされた。最近では「代理母出産」や「生まれつき障害を持った少女」など、人間の生命倫理を問い掛けるテーマを描く事が多い。だが、これらは少女マンガとして軽軽しく扱うべきテーマではないとごく稀に一部で批判されることもある。
またイメージCDをリリースして、更にいくつかの曲では折原がボーカルを担当していたが、これらは漫画家としては異例のことである。漫画家・小説家以外にも幅広い活動を行っており浴衣のデザイン、公立高校での講師なども行う。作品がドラマになることも多く1989年発行の講談社X文庫 ティーンズ・ハート「真夜中を駆けぬける」が1993年にテレビ朝日でドラマ化され同年、同じく小説作品「ときめき時代」が関西ローカル局でドラマ化されている。
折原 一(おりはら いち、1951年 - )は日本の小説家・推理作家。日本推理作家協会現会員。
1951年埼玉県久喜市生まれ。早稲田大学第一文学部東洋史学科卒業後はJTBに入社する。
JTB勤務中の主な業務は出版関係の仕事だった。その後月刊旅行誌「旅 (雑誌) 旅」にてトラベルライターになる。1988年、初めて執筆した小説『五つの棺』にて作家活動を開始。同年に執筆した長編推理小説『倒錯のロンド』を江戸川乱歩賞に応募。最終候補作まで残るものの、受賞せずの結果となった。しかし1995年早川書房より刊行した小説『沈黙の教室』で第48回日本推理作家協会賞を受賞する。身長178cm。
新本格派ミステリー作家の一人に数えられる作家である。
織作 峰子(おりさく みねこ、1960年12月16日-)は写真家。石川県小松市出身。学歴は小松市立国府小学校、小松市立国府中学校、小松市立女子高等学校(現・小松市立高等学校)、京都文教短期大学。高校3年間は陸上部に所属、やり投げで北信越大会入賞を果たすなどして活躍した。
京都文教短大2年の時にミス・ユニバース日本代表に選ばれたが、1981年にニューヨークで開催された世界大会では伊東絹子、高橋敬緯子、児島明子に続く日本人四人目となる入賞は果たせなかった。
ミス・ユニバース日本代表として活動していた際に写真家の大竹省二と出会い、1982年に大竹に弟子入り。1987年に独立した。写真家として著名だが、その美貌でしばしグラビアにも登場する。
折口 雅博(おりぐち まさひろ、1961年6月11日 - )は、日本の実業家で人材派遣会社大手のグッドウィル・グループの創業者。グッドウィル代表取締役会長兼CEO。社団法人日本経済団体連合会理事。東京都大田区出身。学歴は防衛大学校本科理工学専攻卒業(第28期生)。表彰歴として褒章 紺綬褒章受章、日本赤十字社社長表彰、経済界大賞 青年経営者賞を受賞。
実家はサッカリン工場経営で裕福であったものの、法規制で倒産。生活保護世帯の中で育つ。その後、埼玉県立熊谷高等学校を蹴って、学費のかからぬ陸上自衛隊少年工科学校(自衛隊生徒)を経て防衛大学校へ。
1984年防衛大卒業後、同年に日本ユニバック(現・日本ユニシス)に入社。翌1985年には日商岩井に転職。日商岩井では東京・芝浦の巨大ディスコ「ジュリアナ東京」の仕掛け人として名を馳せる。
折口信夫(おりくち しのぶ、1887年(明治20年)2月11日~1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学の研究者。釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくした。自らの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。生涯独身であった。
1887年(明治20年)2月11日、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西町)に生れる。父秀太郎、母こう。七男二女の第七子、五男にあたる。生家は生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた。
1890年(明治23年)4歳にして木津幼稚園に通う。1892年(明治25年)木津尋常小学校に入学。1896年(明治29年)大阪市南区竹屋町育英高等小学校に転ず。1899年(明治32年)大阪府立天王寺高等学校 天王寺中学校に入学。同級の武田祐吉と相知る。1900年、大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという仮説がある(富岡多惠子『釋迢空ノート』)。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。1904年、天王寺中学の卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかったといわれている。
折笠 愛(おりかさ あい、本名:折笠きく江(おりかさ きくえ)、12月12日 - )は東京都出身の女性声優。ぷろだくしょんバオバブ所属。血液型はB型。
代表作は『ロミオの青い空』(ロミオ役)、『小公子セディ』(セディ役)などの主演作をはじめ、『幽☆遊☆白書』(桑原静流、小兎(2役))、『天地無用!』シリーズ(魎呼役)、『サクラ大戦』(藤枝あやめ役)、『新機動戦記ガンダムW』(カトル役)他多数である。
様々な役をマルチにこなし、実在感のある人物造形と、生き生きとした心理表現で知られる。その中でも、特に元気な少年役と色気のある女性の役を得意としている。
元々舞台女優として活動していたが、仕事の幅を広げようという思いから『小公子セディ』のオーディションに参加。何度かの選考を経て、1988年に主人公・セディ役での声優デビューを果たす(最終選考まで残った他の声優は高山みなみ、林原めぐみだったという)。
小山田 保裕(おやまだ やすひろ、1976年7月27日 - )は、茨城県下館市(現筑西市)出身の広島東洋カープ所属の野球選手 プロ野球選手(投手)。
土浦日本大学中学校・高等学校 土浦日大高では3年夏の県大会決勝で茨城県立水戸商業高等学校 水戸商に惜敗、その後城西大学 城西大へ進み、1998年ドラフト会議 ドラフト5位で広島東洋カープに入団。1999年シーズン途中にサイドスローに変更した。サイド投法ながら140km/hを超えるストレート、スライダー、シンカーを武器に、2002年30セーブを挙げ当時の球団最多セーブ記録を更新。
2004年は先発不足のため先発として活躍。山本浩二監督の監督通算600勝のかかった試合に先発し、この試合前に、記者からのインタビューに「ウィニングボールは監督にあげますよ。完封したら?泣きながら監督にあげます。」と冗談を言ったが、見事に完封勝利を挙げたエピソードがある。
小山田 圭吾(おやまだ けいご、1969年1月27日 - )は、東京都出身の音楽家 ミュージシャン。 彼ひとりから構成されるCornelius名義でミュージシャン活動を行っている。日本における所謂「一人バンド 一人ユニット」の先駆け的存在。
和光大学付属中・高等学校卒、その後専門学校に通い、フリッパーズ・ギターを結成。解散後、暫しの期間を経て小山田圭吾による一人ユニットCorneliusとして音楽活動を開始する。
楽曲においては、手法としてサンプリングの採用、テルミンを用いる演奏、ハードディスクドライブ HDDによる多重録音、ヘビーメタルへの傾倒と新解釈、シンセサイザーを前に出した演奏、ハーモニー効果の模索、サウンド・エンジニアリングの創意工夫等が各アルバムリリースごとに施され、アイディア豊かな作品を発表している。
小山 良師(こやま よしもろ 慶安元年(1648年) - 正徳5年9月4日 (旧暦) 9月4日(1715年10月1日))は赤穂藩主浅野内匠頭の家臣。大石内蔵助の親族であり、進藤源四郎とともに内蔵助の側近として活躍したが、のちに脱盟して“不忠臣”の一人となってしまった。赤穂藩では足軽頭300石。通称は源五左衛門(げんござえもん)、一説に源五右衛門(げんごえもん)。
大石良雄 大石内蔵助良雄の祖父内蔵助良欽の三男として生まれた。母は鳥居左近忠勝の娘。したがって大石内蔵助良雄にとっては叔父にあたる人物である。寛文6年(1666年)3月26日、19歳にして中小姓(24石4人扶持)として浅野長直 浅野内匠頭長直(浅野長矩 内匠頭長矩の祖父)に仕えた。延宝3年(1675年)11月25日、28歳のときに伯父にあたる赤穂藩士小山喜右衛門良秀の養子となる。以降、逐次昇進して赤穂藩改易時には足軽頭となっていた。
小山 正明(こやま まさあき、1934年(昭和9年)7月28日 -)は、(プロ野球選手(投手)、野球解説者。右投げ右打ち。2001年(平成13年)野球殿堂入り。阪神タイガース 阪神時代は村山実とともにダブルエースとして活躍し、千葉ロッテマリーンズ 東京・ロッテ時代は成田文男、木樽正明とともに3本柱として活躍した。引退後は阪神、西武ライオンズ 西武、福岡ソフトバンクホークス ダイエーの投手コーチを歴任した。
通算73無四球試合を記録するなど制球に長け、「針の穴を通すコントロール」「精密機械」と称された。兵庫県立高砂高等学校3年秋の1952年(昭和27年)に阪神タイガース 大阪タイガースのテストを受けるも結果通知がこなかったため横浜ベイスターズ 大洋ホエールズの入団テストを受ける。しかし、この年大洋ホエールズは松竹ロビンスとの合併により選手が溢れていたため不合格となる。その後、合格通知がタイガースより届きテスト生として入団。もし大投手・小山が大洋に合格していたら、どうなっていただろう。
小山修加(おやま しゅうか、1980年9月25日-)は、中華人民共和国 中国・遼寧省撫順市出身のバレーボール選手。ポジションはウイングスパイカー。182cm、67kg。
中国名は「王嬌(ワンジョウ)」で、そのままチームでのニックネームになっている。
中学時代は、省の体育運動学院で走り高跳びの選手として活躍。
1996年に家庭の事情で日本人の祖母が住む兵庫県明石市に移住。その際、陸上競技からは手を引くよう通達され、須磨ノ浦女子高等学校でバレーを始める。祖母は1998年に逝去。
2001年、久光製薬スプリングスに入団。しかし当時のVリーグでは外国人選手が禁止されていたため、マネージャーとしてチームに携わっていた。
小山桂司(おやま けいじ、1980年11月19日- )は、プロ野球・北海道日本ハムファイターズに所属する捕手である。背番号は37。
高校(3年時は秋田県ベスト4、2つ上には、東京ヤクルトの鎌田投手がいる)・大学時代には目立った活躍はできなかった。大学を中退し、2003年に当時野村克也が監督を務めていたシダックス野球部に加入した。その後、野村の厳しい指導のもと素質が開花。遠投は110m以上の強肩で、送球が到達するまでの時間が1.8秒という正確な強肩が売り。
2005年のドラフトで、同僚の武田勝とともに日本ハムに指名された。
身長・体重 1m75cm、80kg
投打 右/両
出身地 宮城県仙台市