宇沢 弘文(うざわ・ひろふみ、男性、1928年7月21日 - )は、経済学者。1983年文化功労者、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章。Econometric SocietyのFellow(終身)。1976年から1977年までEconometric Society会長。数学者の宇澤達は息子の一人。経済学者の吉川洋、清滝信宏、松島斉は宇沢の門下生。
鳥取県米子市の米屋に生まれる。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、1948年第一高等学校 (旧制) 第一高等学校理科乙類卒業、1951年東京大学理学部数学科卒業、1951年から1953年まで同特別研究生。1962年経済学博士(東北大学)。
1956年スタンフォード大学経済学部研究員、1958年同助手、1959年同助教授、1960年カリフォルニア大学バークレー校経済学部助教授、1961年スタンフォード大学経済学部準教授、1964年シカゴ大学経済学部教授、1968年東京大学経済学部助教授、1969年同教授、1980年同経済学部長、1989年東京大学を定年退官し新潟大学経済学部教授に就任、東京大学名誉教授。1994年中央大学経済学部教授、1999年国連大学高等研究所特任教授、2003年同志社大学社会的共通資本研究センター所長。
宇佐美 洵(うさみ まこと、明治34年(1901年)2月5日 - 昭和58年(1983年)2月19日)は、日本の財界人。三菱東京UFJ銀行 三菱銀行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁。
父の宇佐美勝夫(1869年~1942年)は、東京府知事、賞勲局総裁、資源局長官を歴任した内務官僚で、貴族院議員に勅選された。弟の宇佐美毅は宮内庁長官。母方の伯父が日銀総裁や大蔵大臣を歴任した池田成彬で、叔父は三菱銀行頭取の加藤武男である。また、従妹の敏(池田成彬の長女)は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫にあたる元三菱製紙会長・岩崎隆弥に嫁いでいるという名家の出であるが、三菱ふそうトラック・バスの前会長・宇佐美隆も毅及び洵の甥にあたるので、隆は神奈川県警察本部などに逮捕されてからは「華麗な家系に属するクズ」と呼ばれている。
宇佐美大輔(うさみ だいすけ、1979年3月29日-)は日本のバレーボール選手である。
高校時代まではアタッカーをしていたが、大学時代から本格的にセッターを始める。パス力とトスワークに定評があり、ジャンプサーブが得意である。
2006年6月までNECに所属していたが、松下電器に移籍した。
身長184cmと歴代の全日本セッターの中でも長身で、バレーセンスの良さから全日本の司令塔として期待されているが、練習中の怪我が多く、社会人になってからの国際大会の出場は少ない。
秋田県平鹿郡雄物川町(現横手市)出身
秋田県立雄物川高校→東海大学体育学部卒
(ちなみに、高校の監督は父親である)
宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日-)はミュージシャン、作曲家。京都府京都市出身。夫人は作詞家の阿木燿子。明治大学法学部卒業。本名は木村 修史(きむら・しゅうじ)。
エドワーズ、ホットミルク(アイスミルク)、松崎しげるなどのマネージャーをしながら、グループサウンズのジュリーとバロンで作曲家としてデビュー。1973年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成。シングル『知らず知らずのうちに』でデビューするも全くヒットせず。1975年に出した『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が大ヒット。曲中のセリフが流行語にもなった。また、この曲をもとに映画まで作られた。
鵜久森 淳志(うぐもり あつし、1987年2月1日- )はプロ野球・北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手である。ポジションは外野手。背番号は65。
高校通算46本塁打。中学までは投手を務めていたが、共学化されたばかりの済美高等学校 (愛媛県) 済美高校に進学してから上甲正典監督に出会い外野手転向。2004年に4番左翼手 レフトとして活躍。春に2本、夏にも秋田市立秋田商業高等学校 秋田商業高校の佐藤剛士(現広島東洋カープ 広島東洋)から放ったホームランを含め3本塁打と大暴れし、同校の高校野球 甲子園春初出場優勝・夏初出場準優勝の立役者の一人になった。奇しくも夏決勝で最後の打者となり敗れた駒澤大学附属苫小牧高等学校 駒大苫小牧高校の地元、北海道日本ハムファイターズにドラフト会議 ドラフト8巡目(これにはあるエピソードがある。詳しくは下記に)指名され入団した。
浮川 和宣(うきがわ かずのり、1949年5月5日 - )は、日本の実業家。ジャストシステムの創設者にして代表取締役社長であり、一太郎の開発者としても知られる。愛媛県新居浜市生まれ。
1973年に愛媛大学工学部電気工学科を卒業し、西芝電機に入社。プログラマ橋本初子とは大学在学中に知り合い、卒業後一旦別れたが、1975年に結婚している。1979年7月に初子(後のジャストシステム代表取締役専務)とともにジャストシステム社を創業し、徳島市 徳島にてオフィスコンピュータシステムの販売会社を始める。1981年に株式会社化。
コンピュータの日本語処理機能の開発に尽力し、展示会に出品したソフトウェアが評判となり、ワープロソフトの開発を受注。1983年に日本電気 NEC PC-100で「JS-WORD」が採用された。本格的な開発に乗りだし、アスキー (企業) アスキーの下請けを経て独立。1985年には「一太郎」として発売され日本全国を席捲することになり、ジャストシステムは日本一のワープロソフトメーカーとなる。